貞光城(さだみつ)
 別称  : 野口
 分類  : 平城
 築城者: 小笠原長定
 遺構  : 堀跡か
 交通  : JR土讃線貞光駅徒歩5分


       <沿革>
           天正五年(1578)、三好家臣小笠原長定によって築かれたとされる。長定は重清城主小笠原
          長政の子で、同年に父が長宗我部氏に通じた大西頼包と中鳥城主久米刑馬に謀殺されると、
          勝瑞城主十河存保に出兵を仰いで重清城を奪還した。長定は、同年の暮れに谷口城を急襲し、
          貞光谷を掌握したとされる。
           翌天正六年(1579)、長宗我部元親は十河勢を破って重清城を抜き、続いて貞光城をも攻め
          落とした。長定の子尾張丞助は討ち死にし、重清小笠原氏は滅んだとされる。
           貞光城はそのまま廃城となったとみられ、天正十三年(1586)には小野寺佐兵衛が阿波国主
          となっていた蜂須賀家政から尾張丞助の跡目を継ぐよう命じられ、貞光城跡に屋敷を構えたと
          される。佐兵衛の父備中守は、阿波郡久千田城主であったが、長宗我部氏に逐われて美馬郡
          一宇(つるぎ町)に逃れていたとされる。


       <手記>
           貞光小学校敷地が貞光城の本丸跡とされ、その東側の西浦観音堂に、城址碑や小野寺氏の
          墓などがあります。観音堂北辺を東へ下りる切通し道は「かろと口」と呼ばれる搦手で、大手は
          南に開いていたそうです。『日本城郭大系』によれば、学校北西の丸山庵裏手にある墓地南辺
          と東辺にも堀跡と見られる地形があったそうですが、これらも道路となっていて不鮮明です。
           城地は、西側の山塊から延びる裾野の角で、籠城を意識した要害というよりは平時の城館に
          近かったものと推察されます。ちなみに、貞光の西隣の阿波半田は江戸時代から続く半田素麺
          で有名です。貞光城北麓の県道を西へ行くと、道中にいくつもの製麺所が建ち並んでいます。
          2か所で購入して食べ比べをしてみたのですが、どちらもたいへんコシがあり、たしかに市販の
          素麺とは美味しさも食べ応えも段違いでした。訪城の際には、お土産に購入することをおすすめ
          します。

           
 西浦観音堂にある城址碑と小野寺氏の墓。
同上。 
 観音堂北辺の搦手とされる「かろと口」。
本丸跡(貞光小学校)。 


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