穴山氏館(あなやまし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 穴山氏
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : JR中央本線穴山駅徒歩10分


       <沿革>
           武田氏の有力支族穴山氏の居館と伝わる。穴山氏は、南北朝時代の甲斐守護武田信武
          の子義武にはじまるとされる。しかし、義武が穴山姓を称した確証はないことから、すでに
          存在していた穴山氏に養子として入ったものとする説も有力視されている。
           義武には子がなく、大甥にあたる満春を養子に迎えたとされる。満春は、兄信満とともに
          上杉禅秀の乱に加わり、応永二十四年(1417)に戦死したとされる(『一蓮寺過去帳』)。
          他方で、満春は高野山で僧籍に入っていて、幕府によって新たな守護として擁立されたと
          する説もある。この場合、満春は武田信元と改名し、幕府の支援を受けて甲斐に入国した
          とされる。信元は甥信長の子伊豆千代丸を養子としたが、伊豆千代丸は永享五年(1433)
          に荒川原での合戦で討ち死にした。信元後任の甲斐守護には信長の兄信重が就き、信重
          の一子信介が穴山氏を継承した。
           満春ないし信介のころに、穴山氏は甲斐国河内地方を領有し、拠点をそちらに移したと
          考えられている。穴山の本貫地も放棄はされなかったものと思われるが、穴山氏館の運用
          状況については不明である。
           天正十年(1582)、織田信長の武田攻めに際して穴山信君(梅雪)は武田氏から離反し、
          河内領を安堵された。しかし、同年の本能寺の変での逃避行中に一揆に襲われ、信君は
          殺害された。跡を子の勝千代が継いだが、同十五年(1587)に16歳で病死した。穴山領は
          徳川家康の五男万千代丸が4歳で継ぎ、万千代丸は後に武田信吉を名乗った。同十八年
          (1590)の家康の関東入国によって、信吉は小金城3万石へ移った。
           穴山氏館は、天正十年から同十八年の間に廃城となったものと推測される。


       <手記>
           穴山氏館は、2つ沢に挟まれた舌状の台地上に位置しています。南東の谷戸には生産性
          の高そうな谷戸田が並んでおり、水源の乏しそうな七里岩の台地にあって、もっとも開発に
          適した選地の1つといえそうです。
           現在、館跡は福祉施設「穴山の里」となっています。施設の西辺と南辺に、土塁と空堀が
          のこっています。
           館自体は舌状台地のやや付け根側にありますが、その先端には周囲を土塁で囲まれた
          祠が見受けられます。おそらく、見張り台として使用されていたものと推測されます。
           穴山町には武田勝頼が築いた新府城があり、周辺にはおそらく居城移転にともなう家臣
          の屋敷跡と思われる遺構が散在しています。穴山氏館の隣にも長坂氏館がありますが、
          この穴山氏の居館に限っては、新府城整備以前から在地領主の館として存在していたもの
          と思われます。

           
 館跡に建つ穴山の里。
土塁と堀跡。 
 同じく土塁。
虎口跡か。 
 台地先端の祠。
祠周囲の土塁。 


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