小金城(こがね) | |
別称 : 大谷口城、開花城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 高城胤吉 | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : JR常磐線北小金駅徒歩5分 | |
<沿革> 享禄三年(1530)、根木内城主高城胤吉によって新たな居城として築城が開始された。 高城氏は千葉氏の有力分家原氏の庶流で、同氏の家老を務めていた。小金城の築城に ついては、根木内城が手狭になったためとも、小弓公方足利義明の攻勢に備えるためとも いわれる。城は7年の歳月をかけて天文六年(1537)に完成した。その出来栄えがあまり に見事であったため、「開花城」の別称が生じたとされる。 高城氏は、千葉氏からみれば陪臣の立場であったが、胤吉は宗家千葉勝胤の娘を娶り、 後北条氏と早くから通じて勢力を拡大した。胤吉の子胤辰のころには、北条氏の他国衆と して、主筋である原氏や千葉氏と同列の存在となった。 永禄九年(1566)、原氏の居城臼井城が上杉謙信によって攻囲されると、小金城も上杉 方の軍勢に包囲されたが、持ち堪えている。戦後、胤辰は旧主原氏の所領の一部を譲渡 された。 天正十八年(1590)の小田原の役に際し、胤辰の跡を継いだ嫡子胤則は小田原に籠城 した。城主不在の小金城は浅野長吉(長政)ら豊臣勢に攻められ、降伏した。 戦後、関東に入封した徳川家康の五男武田(松平)信吉が3万石で小金城主となった。 文禄二年(1593)、信吉は佐倉へ移され、小金城は廃城となった。 <手記> 小金城は、入り組んだ下総台地の一端が銀杏の葉のように突き出した部分を利用して 築かれています。台地と地続きなのは細まった大手口の1ヵ所のみですが、城地は広大 で、いくつもの谷戸や谷の切れ込みを包摂しています。これらの谷筋に沿って、大手口の 他に金杉口、大谷口、達磨口といった出入り口が設けられています。 このように規模が大きく、後北条氏時代末期まで存続した重要な拠点城であったにも かかわらず、一帯は完全に宅地化され、遺構はほとんど残っていません。わずかに大谷 口脇の一郭が歴史公園となっています。公園東隣の大勝院門前の縁起には、わざわざ 「東急不動産株式会社の手によって破壊されてしまい」となかば恨み言のように書かれ ています。 大谷口歴史公園には曲輪を取り巻く土塁が残り、数少ない貴重な遺構となっています。 また、土塁下には「畝堀」や「障子堀」の一部が復元されています。とはいっても本当に 一部で、肝心の畝は復元されておらず、一見すると普通の空堀です。 大倉記念病院東に隣接する達磨口にも、土地の所有者が敷地の一部を市に寄贈して 解放されている箇所があります。こちらには櫓台と思われる、峰先から空堀で切り離され た土塁があります。 このほかには、地形は何となく残っているものの、表面上の遺構は見受けられません。 本丸跡とされる流山電鉄沿いの南西隅の住宅地の付け根、県道280号の交差点角に、 「小金大谷口城跡」の石碑と説明板があります。ここから県道を北小金駅方面へ歩くと、 城跡関連の小字に関連した「大谷口外番場遺跡」や「達磨遺跡」と書かれた標柱があり ます。貴重な遺構を破壊し尽くしたことに負い目があるのかと思いきや、これらの標柱は 先史遺跡を示すもののようです。 さて、小金城はかくの通り広大な城域を有し、なおかつ周囲にいくつもの支砦を配して います。その様相はさながら戦国大名の居城のようであり、名目上は陪臣のまま明確な 下剋上を行ったわけではありませんが、高城氏の支配能力の高さをうかがうことができ ます。おそらく、城内や周辺の支城に一族や重臣の屋敷を配して、領内の統率を図って いたものと推測されます。 開花城とまで呼ばれた小金城の壮大さに比して、高城氏の出自や勢力拡大の歴史に ついてはよくわかっていません。小金城築城についても、対足利義明の前線とするなら、 完成までに7年もかけるというのは不自然です。現地説明板の略絵図によると、小金城 は縦の短冊状に3つのエリアに大別できるように見受けられます。したがって、直感的に はまず主郭から北の馬屋敷(旧神明社)までの台地先端部分を城域とした小規模な城 が築かれ、胤辰の代くらいまで徐々に拡張・改修が加えられていったのではないかなと 推測しています。 |
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主郭付け根の城址碑。 | |
大谷口歴史公園の門跡。 | |
同公園内の復元畝堀。 | |
同じく復元障子堀。 | |
大谷口の曲輪のようす。 | |
達磨口。 | |
達磨口の空堀。 | |
達磨口の土塁。櫓台か。 | |
大谷口外番場遺跡標柱。 城跡ではなく先史遺跡。 |
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達磨遺跡標柱。 同じく先史遺跡。 |
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大手口のようす。 |