阿保城(あお)
 別称  : 岸田伯耆城、岸田伯耆館、阿保頓宮
 分類  : 平山城
 築城者: 阿保氏か
 遺構  : 土塁、虎口
 交通  : 近鉄大阪線青山町駅徒歩15分


       <沿革>
           『日本城郭大系』では、北畠家臣として名の見える阿保氏の居城として築かれたものと
          推測している。永禄十二年(1569)、戦死した野呂越前守の後を受けて、阿保式部少輔
          が五箇篠山城主となったとされるが、阿保城については史料にみられない。
           天正十三年(1585)に大和郡山城主筒井定次が伊賀へ転封となると、家臣岸田伯耆が
          阿保に3千石を与えられた。伯耆は阿保城を取り立てたとみられ、『三国地誌』には岸田
          伯耆城として記載されているが、その概要は諸説あり定かでない。
           慶長十三年(1608)に筒井家が改易となると、阿保城も廃されたものとみられる。


       <手記>
           阿保城は前深瀬川と木津川に臨む丘陵の先端部に築かれています。台地の角に選地
          されているものの、地形を取り入れているというわけではなく、丘の上に突然方形城館が
          現れるといった感じです。
           土塁で囲まれていて南北に虎口が開き、堀は用いられておらず、城内はあまり面積が
          ありません。郭内には「史跡 阿保頓宮阯」の石碑が建っており、古くから聖武天皇が天平
          十二年(740)に大雨に見舞われて宿泊したところとされています。ですが、少なくとも今日
          目にしている遺構はつとめて中世以降の城館跡であり、頓宮が存在したという確証はあり
          ません。そもそも、天皇をお迎えするにはあまりに狭く薄暗く、岸田伯耆でさえ、ここで生活
          したり政務をとったりなどはしなかったでしょう。伯耆の居館および役所、さらにいえば阿保
          氏の居館も、おそらく方形城館の脇か丘の麓に設けられていたものと推察されます。


 阿保城の土塁。
南辺の虎口。 
 城内のようす。
城内の「史跡 阿保頓宮阯」碑。 
 北辺の虎口から城内を俯瞰。
北辺の虎口。 
 南東隅の土塁。
東辺の土塁。 
 
 丘上からの眺望。
おまけ:西麓にある垂仁天皇皇子息速別命墓。 
阿保頓宮と関連があるのかは不明です。 


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