郡山城(こおりやま)
 別称  : 大和郡山城
 分類  : 平山城
 築城者: 郡山衆
 遺構  : 石垣、堀
 交通  : 近鉄橿原線近鉄郡山駅徒歩10分


       <沿革>
           今日の郡山城址一帯には鎌倉時代後期以降、郡山衆と呼ばれる土豪集団が各々居館を構えて
          いた。郡山の名は、正安二年(1300)に薬園荘から郡山荘が分かれたのが初出とされる。郡山衆
          は「中殿」や「辰巳殿」をはじめ、向氏や戌亥氏、矢興氏など多くの家に分かれていた。彼らは郡山
          の丘に雁行状に居館を並べていたことから、「雁陣の城」と総称されていたとされる。その雁陣は、
          近世郡山城の外郭部にあたる、現在の大和郡山病院から永慶寺北西付近までと推測されている。
          ただし、近年の発掘調査で、本丸西方の麒麟曲輪から方形館と推定される遺構が見つかったこと
          から、より広範囲に城館が散在していた可能性も指摘されている。
           15世紀に入って大和永享の乱が勃発すると、郡山衆は内部分裂し、とくに大和で勢力を拡大して
          いた筒井氏と越智氏の間で揺れ動いていた。同世紀末に両氏が和解すると、郡山衆は筒井氏に
          降った。
           永正三年(1506)八月、細川政元の送り込んだ赤沢朝経によって、郡山城が攻め落とされたこと
          が『多聞院日記』に記されている。これが、郡山城の名の初出とされる。翌四年(1507)に政元が
          暗殺されると、朝経も大和国人衆連合軍に討ち取られ、郡山城も郡山衆の手に戻ったものと推測
          される。
           永禄十一年(1568)、多聞山城主の松永久秀が筒井順慶の居城筒井城を急襲した。筒井方に
          離反者が相次いだこともあって筒井城は落城したが、このとき寝返った者のなかに、「郡山辰巳」
          の名が見える。「郡山辰巳」氏は、前述のとおり郡山衆の1家であり、郡山氏辰巳家ないし郡山衆
          辰巳氏を意味するものと思われるが、実名は明らかでない。順慶は、叔父福住順弘の福住城へ
          落ち延びた。
           しかし、郡山城はその後も筒井方に残ったようで、『日本城郭大系』によれば、久秀は郡山城の
          四方に付城を築いて包囲したが、攻め落とすことはできなかったとある。郡山辰巳氏が寝返った
          にもかかわらず、郡山城が筒井氏側にとどまった理由は定かでない。元亀二年(1571)、順慶は
          郡山城の東方に辰市城を築き、久秀との決戦に及んだ(辰市城の戦い)。この戦いに勝った順慶
          は、信長の傘下に入ることを認められ、久秀との抗争に一応の終止符を打った。
           天正五年(1577)に久秀が謀叛を起こして没落すると(信貴山城の戦い)、順慶は事実上の大和
          国主となり、筒井城の改修に取りかかった。しかし、同八年(1580)に居城以外の大和国内の城の
          破却(大和一国破城)を信長に命じられると、普請中の筒井城を捨てて、郡山城を新たな居城に
          定めた。直接の理由は不明だが、同年には郡山辰巳氏を謀殺している。後に越智氏も殺害された
          ことから、国内の有力不安分子の粛清だったものと推測される。
           天正十年(1582)に本能寺の変が起こると、順慶は続く山崎の戦いで俗にいう「洞ヶ峠」を決め
          込み(実際には摂津の洞ヶ峠どころか、大和国から出てもいない)、戦後羽柴秀吉に従って所領を
          安堵された。しかし、同十二年(1584)に順慶は病で急死し、跡を養子の定次が継いだ。定次の父
          慈明寺順国は順慶の叔父であるが、母は順慶の姉であるため、定次は順慶の従弟であり甥でも
          あった。
           翌天正十三年(1585)、定次は伊賀国への転封を命じられた。一般的には、この転封は減封の
          上の左遷であるとされるが、他方で伊賀は東方に対する要衝であり、石高にもそれほど差はなく、
          むしろ栄転に近いとする説もある。代わって秀吉の弟豊臣秀長が、大和国のほか和泉・紀伊両国
          を合わせて100万余石の大封を与えられた。秀長は、100万石にふさわしい居城にすべく、郡山城
          の大改修に着手した。大和は石材に乏しかったため、村々や寺社から強制的に、墓石や仏石に
          至るまで徴発した。こうした転用石は、今も石垣の随所に目にすることができるが、順慶の代から
          徴発は行われていたともいわれる。
           天正十九年(1591)に秀長が、文禄四年(1595)にその養子秀保が相次いで世を去ると、大和
          大納言家は断絶した。郡山城には、五奉行の1人増田長盛が22万石で入った。長盛の時代に、
          城下を大きく囲む総構えが完成した。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、長盛は西軍に属して改易され、郡山城は徳川領となった。
          城番には大久保石見守長安が任じられたが、城の建物の多くは伏見城へ移築された。その後、
          城番は山口駿河守直友ついで筒井定慶に引き継がれた。定慶は順慶の叔父福住順弘の子で、
          従兄の定次が同十三年(1608)に改易となった後、筒井氏の家名を継いでいた。定慶は郡山に
          1万石を与えられていたため、郡山藩を立藩していたかのようにいわれることがあるが、実際には
          幕府預かりの郡山城在番である(そもそも、1万石で郡山城を維持するのは不可能である)。
           元和元年(1615)の大坂夏の陣に際して、郡山城はその戦端を開く地となった。大坂城の堀を
          埋められた豊臣方は籠城策を採ることができなかったため、積極的な攻勢に出ざるを得ず、狙い
          を郡山城に定め、味方になるかさもなくば攻撃すると定慶に迫った。定慶はこれを拒否したが、
          城には与力が36名と、非戦闘員を含めても数百人しかいなかった。四月二十六日夜半、およそ
          2千人の豊臣勢が郡山城に攻め寄せたが、城方が敵兵の数を過大に見誤ったこともあり、定慶は
          敵せずとして福住へ退避した。豊臣勢は郡山城下に火を放ったが、まもなく徳川方の先遣隊が
          やってくると、兵をまとめて大坂へ撤退した。豊臣家の滅亡後、定慶は城を棄てて逃亡したことを
          恥じて切腹した(異説有)。
           同年、水野勝成が6万石で郡山藩を興した。郡山城は先の戦いで荒廃しており、いわゆる天下
          普請を交えた修築が行われた。勝成は、完成を前に元和五年(1619)に備後福山へ移封となり、
          代わって奥平松平忠明が大坂から12万石で郡山に入った。忠明もまた、寛永十六年(1639)に
          姫路へ転封となり、入れ替わりで本多政勝が15万石で郡山に入封した。その後、本多家3代、
          藤井松平家1代、本多家5代と続き、享保九年(1724)に柳沢吉里が15万石で甲府から入封する
          に及んで、ようやく城主家が安定した。吉里は、将軍徳川綱吉の側用人として名高い柳沢吉保の
          嫡男である。以後、柳沢家が6代続いて明治維新を迎えた。


       <手記>
           郡山は、富雄川と秋篠川に挟まれて北から伸びる丘陵地帯の南端に位置しています。秋篠川
          は城の北東で直角カーブを描いて東の佐保川に合流していますが、これは増田長盛時代の河川
          改修によるものです。主城域東麓内堀のすぐ脇を近鉄橿原線が走り、列車内からでも美しい堀や
          石垣を眼前に見ることができます。
           法印曲輪と毘沙門曲輪の間には、梅林門と二重隅櫓2基および付属の多聞櫓等が復元されて
          います。梅林門は、少なくとも秀長時代までは大手門だったようで、今ではしばしば追手門と表記
          されています。法印曲輪には市民会館が、毘沙門曲輪には柳沢文庫が建っていますが、法印
          曲輪の北辺には、私が見て回った限り城内で唯一と思われる明確な土塁遺構があります。安政
          年間(1854〜60)の古絵図では、この土塁上は「玄武郭」と記されています。
           かつては、柳沢文庫の西側から本丸堀を渡る極楽橋という木橋があったとされ、2021年に復元
          されています。本丸南の竹林門が土橋になっているため、こちらが本丸正門のように思われがち
          ですが、当時は竹林門前も木橋であったため、極楽橋が正式なルートとされています。
           本丸天守台の石垣も近年整備され、天守台上からは城下町はもちろん、遠く平城宮大極殿や
          東大寺大仏殿なども望めます。天守台石垣北辺には、「逆さ地蔵」と呼ばれる石仏も見られます。
          本丸の整備はまだ続いているようなので、さらに今後に期待です。
           二の丸跡である郡山高校冠山校舎の南と、麒麟曲輪跡である同高校の旧城内校舎南西には、
          それぞれ鷺池と鰻堀池という2つの溜池兼外堀があります。その両池の外側に、郡山城の前身で
          ある雁陣の城があったとされていますが、市街地化されているため面影はありません。
           本丸側から線路を挟んだ東側には、三の丸がありました。市役所の前には三の丸堀(大手堀)
          の一部が、近鉄郡山駅から城跡へ向かう途中の交差点には、大手門桝形の石垣の一部が残存
          しています。そのほか、増田氏時代に造られた長大な総構えの堀や土塁の跡が断片的に残って
          いるそうですが、歩いて回るにはかなり遠かったので今回は断念しました。
           やや離れたところにあるJR郡山駅の西方には、外堀跡が外堀緑地と名付けられた親水散策路
          として整備されています。常念寺裏には模擬門もあり、外郭の整備方法としては注目に値すると
          思われます。そのほか、郡山北小学校の東方にも、外堀の一部が残っています。
           さて、郡山城で1つ大きな謎とされているのが、筒井順慶・定次の時代と秀長以降の時代では、
          本丸の位置をはじめ城の様相が大きく異なっていたのではないかという点です。異なるとする説
          では、先に紹介した鷺池の南側、大和郡山病院のあたりが、筒井氏時代の本丸跡と推測されて
          います。たしかに、病院一帯は郡山丘陵先端付近の舌状地形となっており、中世城郭のセオリー
          でいえば、ここに本丸が置かれても不思議ではありません。『大系』でも、永慶寺から病院付近に
          かけてが郡山丘陵の主稜線であるとして、こちらの説を支持しています。
           ですが私見としては、鷺池や鰻堀池が古くから存在していたとすれば、あるいは池ではなくても
          谷戸であったとすれば、近世郡山城の主城域が筒井氏時代の城地にふさわしくなかったとまでは
          いえないように思います。『大系』では、現在の主城域は永慶寺の稜線から見下ろされる不利な
          地勢にあるとしていますが、2つの池は鉄砲戦にも対応できるだろう広さをもっており、要害性の
          点からもそこまで劣るものとはいえないように思います。この問題は、机上の空論をいくら重ねて
          も解決されるものではなく、今後の発掘調査ないし新資料の発見に期待するよりありません。

           
 復興梅林門(追手門)と向櫓(御弓櫓)を望む。
向櫓近望。 
 梅林門近望。
復興東隅櫓と続多聞櫓。 
 本丸石垣とその向こうに天守台石垣を望む。
竹林門跡。 
 復興された極楽橋。
極楽橋と本丸側門跡を望む。 
 天守台石垣。
同上。 
 天守台からの眺望。
天守台石垣の「逆さ地蔵」。 
 二の丸中仕切門跡。
松蔭門跡。 
 松蔭堀。
鷺池。 
 鰻堀池。
法印曲輪北辺の土塁(玄武郭)。 
 毘沙門曲輪の堀と石垣。
二の丸下の鉄門跡。 
 大手桝形跡の石垣。
 手前横断歩道が一の門跡。
 左手奥の横断歩道が二の門である柳門跡。
大手堀(三の丸堀)と旧大手橋の欄干。 
 近鉄と多聞櫓。
外堀緑地。 
 外堀緑地北門。
常念寺裏の外堀緑地。 
 郡山北小学校東方に残る外堀。


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