本田氏城(ほんだし)
 別称  : 本田城、本田要害
 分類  : 平山城
 築城者: 本田氏
 遺構  : 土塁、堀、虎口
 交通  : 近鉄大阪線青山町駅からバスに乗り、
      「岡田」下車徒歩15分


       <沿革>
           本田氏は伊賀郷士の1家とみられるが、詳細は不明である。『日本城郭大系』では、
          天正七年(1579)からの2度にわたる天正伊賀の乱に際して、織田方の襲来に備えて
          築かれたものと推測している。
           天正九年(1581)の第二次天正伊賀の乱において、名賀郡周辺の伊賀衆は掛田城
          に籠城したが、1万といわれる北畠信意(織田信雄)勢に恐れをなして逃散した。その
          うち数百名が本田城に逃げ込んだが、織田勢に攻められ討ち取られたとされる。これ
          により、本田氏城も打ち捨てられて廃されたと推測される。


       <手記>
           柏尾集落背後の丘陵先端部に築かれた伊賀式城館で、南西麓から畑伝いに城内へ
          入れます。南西辺に虎口が開いており、南東背後に堀切がありますが、他の三辺には
          堀はみられません。物見台状にやや広くなっている土塁南東隅の樹木に、手製の城址
          プレートが掛けられています。
           堀切を越えた南東山裾には、日本城郭大系に西の丸と表記されている削平地があり
          ます。斜面を掘り込んだ曲輪ですが、さほど手の込んだものではなく、詰曲輪の主郭に
          対する居館部か何かと見るべきでしょう。
           『大系』では、織田勢に備えて新造された要害としていますが、規模も技巧も、周辺の
          城館に対して秀でているようなようすはありません。本田氏城の名のとおり、本田氏の
          居館および詰城であり、たまたまこの城で織田軍に補足され、攻め落とされたのだとう
          と推察されます。

 本田氏城跡を望む。
北西隅の土塁。 
 南西辺の虎口状開口部。
城内のようす。 
 同上。
南東隅土塁上の城址プレート。 
 土塁北東隅のようす。
付け根側の堀切。 
 
 堀切の向こう側の削平地。
 『大系』にある西の丸か。


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