掛田城(かけだ) | |
別称 : 富増伊予城、富益城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 富増氏か | |
遺構 : 土塁、堀、虎口、曲輪 | |
交通 : 近鉄大阪線伊賀上津駅徒歩10分 | |
<沿革> 土豪富増伊予守の居城とされる。天正七年(1579)の第一次天正伊賀の乱において、 3か所から伊賀へ侵攻した北畠信意(織田信雄)勢に対し、伊勢路口の敵勢を迎え撃つ べく、伊予守はじめ近隣の伊賀衆が掛田城に立て籠もった。伊賀勢は北畠軍を大いに 打ち負かし、撃退したとされる。 天正九年(1581)、今度は織田信長自らが大規模な侵攻軍を組織して、第二次天正 伊賀の乱が勃発した。伊勢路口から1万もの軍勢が攻め寄せると、掛田城の伊賀衆は 恐れをなして本田城などに逃げ込んだと伝わる。伊予守は城を守って討ち死にしたとも、 他の籠城方と同じく逃げ去ったともいわれる。まもなく織田氏によって伊賀が平定される と、掛田城も廃城となったものとみられる。 <手記> 近鉄伊賀上津駅の南側に伸びる峰が掛田城跡です。登城口がたいへん分かりにくい のですが、国道と旧初瀬街道の交わるところに自販機が並んでいて、その脇の民家の 隙間奥に、階段がみえるのがそれです。自販機付近の道路は幅広くなっているので、 車の人はそこに駐車するとよいでしょう。 掛田城は、おそらくもともとは単郭方形の典型的な伊賀式城館だったものを大規模に 拡張してできた城砦と思われます。とくに主郭前方には、数段の腰曲輪や虎口前方を 遮蔽する蔀状の土塁、直進を阻む虎口などが設けられ、伊賀の城館のなかではかなり 厳重なつくりとなっているのが最大の特徴です。 主郭虎口は西側の土塁のみ櫓台状にせり出していて、疑似的に喰い違い状を呈して います。また、主郭の南東隅にはもう1つ土塁に囲まれた方形の小区画があり、現在は 小祠が祀られています。これが櫓台なのか、守護神などを祀った空間なのかは定かで ありません。 主郭のの南西側は小谷戸となっていて、当初は天然の堀だったものと思われますが、 拡張によって堰き止め土塁が設けられたり数段に削平されたりして、城内に取り込まれ ています。このような造作も伊賀ではとても珍しく、印象的です。 主郭の背後は、尾根筋の1〜2段の削平地や張り出し土塁を経て、茶丸神社へと至り ます。境内は戦後に整形された感じがありますが、社殿背後には明確な土塁がみられ、 物見台か何かの曲輪があったと考えられているようです。 茶丸神社の参道は、主郭南西の谷戸を挟んだ尾根筋を下り、峰全体の南西谷筋に 通じています。おそらくこの参道の尾根も、外郭の土塁として利用されていたのでしょう。 私は行きはこちらから神社まで登り、主郭裏手から城内に進入するという逆ルートを辿り ました。 このように規模も大きく技巧的な掛田城ですが、一般には伊賀衆が織田氏との戦いに 備えて改修したと考えられているようです。一方で、私は最終的な改修者が織田氏側で ある可能性もあるように感じています。たとえば主郭南東隅の区画が櫓台だったとすれ ば、伊賀衆がそのような高層建築を必要としたようには思えません。また、主郭虎口の 基部には石列がみられ、石垣が用いられていたとみられています。戦闘とは直接関係の ない部分で手がかけられていることになり、この点も伊賀衆が改修したとするうえで疑問 が残ります。 そこで、伊賀平定後の織田信雄が地域支配のために掛田城を取り立て、織田氏流に 改修したとみるのは、あり得ないことではないように思うのです。すぐ東隣の尾根にある 城氏城の方には手を加えられた形跡がみられている点も、傍証といえるでしょう。 |
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掛田城登城口。 | |
登山口の説明板。 | |
主郭下腰曲輪の土塁。 | |
虎口状を呈する土塁。 | |
同じく腰曲輪の土塁。 | |
同じく腰曲輪。 | |
主郭虎口前の土塁。 | |
主郭の虎口。 |
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主郭のようす。 | |
同上。 | |
主郭南東隅区画の虎口。 | |
主郭南東隅区画のようす。 | |
主郭南東隅区画に祀られた祠。 | |
主郭背後の空堀。 | |
主郭南東隅の空堀。 | |
主郭南西側谷戸の土塁。 | |
同じく階段状の削平地。 | |
主郭背後の尾根筋の削平地。 | |
同じく張り出し土塁。 | |
茶丸神社。 | |
社殿背後の土塁。 | |
茶丸神社参道。 左手は主郭南西側の谷戸。 |