青木氏館(あおきし)
 別称  : 青木氏屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 青木時光か
 遺構  : 不詳
 交通  : JR中央本線韮崎駅よりバス
       「青木」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           武川衆の一人青木氏の居館とされる。青木氏は、武田氏の支流一条氏の流れを汲む。一条氏は
          武田信義の嫡男忠頼にはじまるが、忠頼は源頼朝によって誘殺された。これにより一条氏は一時
          断絶するが、信義の五男信光の次男信長によって再興された。
           信長の孫時信の子時光が、武川筋の青木に居を構え、青木氏を名乗った。集落南西の常光寺は、
          時光の子常光の開基と伝わる。青木氏からさらに武川衆の多くの支族が派生し、青木氏は武川衆
          の惣領的立場にあったものと推測される。
           『寛政重修諸家譜』によれば、青木信種が白山城を守備し、天文十年(1541)十月に亡くなったと
          される。同年六月の武田八幡宮造営に関わった奉行のなかに、信種の子尾張守満懸の名がある。
          白山城主は、その後信種の次男山寺信明が引き継いだ。
           天正十年(1582)に武田氏が滅び、同年に織田信長も横死すると、青木信時は徳川家康に属し、
          青木郷を安堵された。信時は満懸の子重満の子とされるが、満懸の兄信立の子ともいわれ、この間 
          の系譜は判然としない。武川衆7人が連署した永禄十年(1567)の『下之郷起請文』には、青木重満
          と青木信秀の名がみられる。このほか、常光寺に残る青木氏墓には信立ではなく信親とあり、信親
          の子が信時とある。信時の後、信安−信就までは名が確認できるが、その後の青木氏については
          不明である。
           ちなみに、信立の三男信俊は青木氏の支流柳沢氏を継ぎ、その孫が徳川綱吉の側近として活躍
          した柳沢吉保である。


       <手記>
           青木集落の常光寺と諏訪神社の間の徳島堰沿いに西屋敷の字が残り、青木氏館はこのあたりに
          あったものと考えられています。『日本城郭大系』には、地籍図から2ヶ所の館跡ついて推定位置が
          示されています。両者を別々の館とみているのか、2つの曲輪をもつ館とみているのかは詳らかでは
          ありませんが、仮に両者をそれぞれ「北推定地」「南推定地」と呼ぶことにします。
           どちらとも、基本的には圃場整備が進んでおり遺構の確認は難しいのですが、まず南推定地の西
          に、田圃と道路に囲まれて昔のままの形状と思われる畑地があります。館西辺との関連も考えられ
          ますが、確定的なことはいえません。南推定地の北端には小沢が流れ、ごく小さな谷戸を形成して
          います。これを、堀を兼ねた館の遺構とみることもできなくはないでしょう。
           つぎに北推定地ですが、こちらは西端に圃場整備から取り残されたようなごく細い畑地があります。
          堀跡を利用したものと考えられ、興味深い地形となっています。両推定地とも、遺構のように思われる
          箇所は散見されるのですが、表面観察からはどこまで遺構とみてよいか難しいところがあります。
           ちなみに、青木は対岸に新府城址を望む緩やかな沢水に恵まれた傾斜地ですが、いわゆる半日村
          で、私が訪れた12月には15時を待たずに日陰で暗くなってしまいました。

           
 青木氏館周辺現況。
字西屋敷の旧地形の畑地。 
 北推定地の堀跡と思しき畑地。
南推定地の堀を兼ねたと思われる沢。 
右側が南推定地。 


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