有賀城(あるが) | |
別称 : 天狗山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 有賀次郎 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀 | |
交通 : JR中央本線上諏訪駅よりバス 「江音寺」バス停徒歩5分 |
|
<沿革> 『豊田村誌』に、「承久年間(1219〜21) 諏訪氏の支族有賀次郎之に居り」とある。 有賀次郎は、大祝諏訪盛重の従兄弟頼忠より分かれた人物とされる。有賀氏は多数 いる諏訪氏支族のなかでも有力な一族であったと思われ、応永七年(1400)の大塔 合戦では諏訪本家が参加していないなかで、有賀美濃入道が矢ヶ崎氏や古田氏など 他の諏訪氏族を率いて国人連合軍に加わっている(『大塔物語』)。 長享元年(1487)、諏訪惣領家と大祝家の「文明の内訌」に際し、大祝家側についた 高遠継宗が諏訪への進出を図り、惣領家側の有賀氏と対峙した。天文十一年(1542) に甲斐の武田晴信(後の信玄)が高遠頼継と組んで諏訪へ侵攻した際には、有賀氏は 武田・高遠勢に与した。同年に諏訪惣領家が滅ぶと、諏訪郡は宮川を境に西半を頼継 が、東半を晴信が領有することとなった。同年九月に諏訪全域の制圧を目論んだ頼継 が安国寺合戦で晴信に敗れると、諏訪郡は武田氏の支配下となった。 同十五年(1546)、有賀豊後守泰時は木曽義昌と通じたとして、晴信に滅ぼされた。 有賀城には、武田氏重臣原美濃守虎胤が城将として入った。同十八年(1549)には、 千野靭負尉が有賀に封じられた。 天正十八年(1590)に諏訪頼忠が徳川家康に従って武蔵国奈良梨へ移るまで千野 氏が有賀にあったと思われるが、その後の日根野氏支配下の有賀城については不明 である。慶長六年(1601)に諏訪氏が諏訪領主に返り咲くと、千野丹波守房清が有賀 に住した。 <手記> 有賀城は、諏訪と辰野を結ぶ有賀峠道(甲州街道・中山道の脇往還)が眼下で諏訪 西街道(鎌倉街道)と交わる交通の要衝に位置しています。北東に向かって突き出た 急峻な峰を利用した城です。『日本城郭大系』には「規模はそれほど大きくはない」と ありますが、いくつもの曲輪と堀切から構成された、諏訪の城の中では規模の大きな ものであると思います。ただ、現存遺構は明らかに武田氏以降に完成されたもので、 有賀氏時代にはずっと小さく、有賀次郎の頃に至っては山上に城があったのかどうか も疑わしいと思われます。 城へは、麓の江音寺裏手からか、県道50号線の途中から登ることができます。登り やすさという点からは後者をおすすめします。江音寺は千野氏の菩提寺ということです が、おそらく城主の居館が営まれていたものと考えられます。圧巻なのは主郭周りの 堀で、主郭の前後に堀切を穿ち、左右には横堀を配して独立させています。主郭から 堀切を隔てて北東側に副郭があり、その先にも階段状に多数の曲輪が続いています。 主郭背後の堀切の先には、さらに尾根を断ち切る連続堀切が3つほど連なっています。 このように、有賀城が他の諏訪の城よりも大規模に改修されている背景には、有賀 が伊那から諏訪への重要な侵入ルート脇にあるという点が挙げられると思われます。 有賀泰時が武田晴信に滅ぼされた際には、木曽義昌との内通が理由とされました。 ですが、諏訪の一土豪と木曽氏が通じるということはあまり現実的ではないように思い ます。おそらく、単純に西からの侵攻ルートを押さえる重要拠点から有賀氏を排除した かっただけだったのではないでしょうか。その跡を襲ったのが武田氏の重臣中の重臣 である原虎胤だったことや、塩尻峠の戦いで勝利した翌年に有賀城を千野氏に任せて いることなどからも、有賀城が伊那衆や小笠原氏に対する前線基地としてみなされて いたのではないかと推測されます。 |
|
県道50号線からの登城口。 | |
主郭背後の堀切。 | |
主郭のようす。 石垣は後世のものと考えられています。 |
|
写真中央から、左手が主郭前面の堀切。 手前が竪堀、右手が横堀。 |
|
副郭のようす。 | |
三の曲輪のようす。 | |
三の曲輪から四の曲輪を望む。 | |
五の曲輪のようす。 | |
五の曲輪からその先の曲輪群を望む。 | |
主郭背後の尾根筋の連続堀切群。 |