奈良梨陣屋(ならなし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 諏訪頼忠
 遺構  : 土塁、堀
 交通  :東武東上線・JR八高線小川町駅または
      JR高崎線・秩父鉄道熊谷駅よりバス。
      「奈良梨」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           天正十八年(1590)、小田原の役にともない徳川家康が関東に移封となると、
          徳川家臣諏訪頼忠が比企郡奈良梨・児玉郡蛭川・埼玉郡羽生の3ヶ所で計1万
          2千石を与えられた。
           頼忠は奈良梨に陣屋を建築し、敷地内に諏訪神社を勧請した。しかし、文禄
          元年(1592)に諏訪氏は上野国総社に転封となり、奈良梨陣屋は廃されたもの
          と考えられる。


       <手記>
           現在の八和田神社(諏訪神社から改称)境内が、陣屋跡といわれています。
          『日本城郭大系』には遺構なしとありますが、境内の周囲には明確な堀と土塁
          が残っています。土塁の北東隅外側に説明板が設置されていますが、それに
          よると試掘調査が行われたものの、遺構の年代は特定できなかったということ
          です。すなわち、ここには陣屋以前からすでに何らかの城館があった可能性も
          あり、そもそも陣屋の遺構であるという確証もありません。
           境内の土塁と堀で囲まれた範囲をみると、どうも1万石の陣屋としては幾分
          狭すぎるような気がします。ここで、八和田神社の200mほど北に、戦国時代
          以前のものとされている奈良梨館の土塁があります。すなわち、奈良梨陣屋
          が築かれる前からあった館ということになりますが、諏訪氏がこの既存の施設
          をまったく利用しなかったとは考えにくいように思われます。また、八和田神社
          と奈良梨館の間の畑は、浅く低いながらも用水堀と土塁で囲まれています。
          この畑地は土地改良などを受けているようすはなく、ある程度は古いままの形
          を留めているようです。
           そこで個人的な直感としては、奈良梨陣屋は奈良梨館から八和田神社まで
          の間に政庁や家臣屋敷などが分散して建ち並んでいたのではないかと推測
          しています。

           
 陣屋跡説明板。
東辺の堀と土塁。 
 
 北辺の堀と土塁。
北辺の土塁を境内側から。 
 北西隅付近の土塁。
南東端にある水に囲まれた弁天社。 
 八和田神社本殿。
神社北側の畑地の用水と土塁状の高まり。 
 同上。
上述の畑地を神社側から望む。 


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