朝比奈城(あさひな) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 朝比奈氏 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : 新東名高速道路藤枝岡部ICから車で10分 | |
<沿革> 今川家重臣朝比奈氏の居城とされる。朝比奈氏の出自には大きく2説あり、1つは和田義盛の 三男・朝比奈三郎義秀を祖とするものである。義秀の本貫および名字の由来は一般に安房国 朝夷郡といわれ、駿河国に所領があったとは考えにくい。 もう1つは、藤原北家流の公家・堤公国が駿河国司として赴任した際、現地で国俊・公俊兄弟 を儲け、前者が朝比奈郷に拠って朝比奈氏に、後者が同じく岡部氏の祖となったとするもので ある。ただし、堤家から駿河国司を輩出したとする記録はみられない。遅くとも、鎌倉時代まで には朝比奈郷を領する朝比奈氏が成立していたとみられるが、戦国時代に至るまでの系譜は 明らかでない。 今川氏に仕えた朝比奈氏は、遠江朝比奈氏と駿河朝比奈氏の大きく2家に分かれ、後者は 駿府の東の要衝である庵原城を任された。そのため、朝比奈城の扱いについては定かでない。 駿河朝比奈氏の朝比奈元長は、永禄十二年(1568)の駿河侵攻に際して武田信玄に臣従し、 引き続き庵原城主として重用されて信置と改名した。その後も朝比奈城の動静は不明である。 <手記> 朝比奈城は朝比奈川と野田沢川に三方を囲まれた丘陵の支尾根にあります。上に図示した ように東西2つの峰にそれぞれ別個の遺構群があり、西側の方が明らかに年代が古いので、 ここでは仮に西を古城、東を新城と呼ぶことにします。 南西麓には道の駅「玉露の里」があり、車はここに止められるうえ、古城については現地の 地図にも記載されていました。城山へは道の駅南側の萬年寺から上がる道があり、途中には 放棄された茶畑の広がる緩やかな斜面が広がっています。『日本城郭大系』によれば権現平 と呼ばれ、居館跡と推定されているようです。 そこからはハイキングコースが整備されていて、さほど労なく古城に辿り着きます。現地では 朝比奈城といえばこちらを指すようで、標柱や説明板が設置されていました。やや広さのある 単郭の城で、背後には狭く鋭角の堀切が設けられています。また、南東尾根は土橋状に細く 成形されているように見受けられ、あるいは南西の花倉城など今川氏の城郭にしばしば見ら れる一騎駆けとなっているのではないかとも考えられます。 続いて新城へ向かうには、古城から少しハイキングコースを進み、善能寺方面への標識が 建つ手前あたりで右手の踏み分け道に入ります。分岐点が分かりにくいのですが、入り口さえ 見付けてしまえば後は簡単です。下りながら進みに進めば、やがて背後の3条の堀切に到達 します。私のときは、堀切の手前にカモシカさんがいてちょっと驚きましたが、少しずつ近寄って あちらさんに立ち去っていただきました。 新城は上述の通り背後の3条の堀切を穿ち、城内は主郭以下腰曲輪を連ねた縄張りをして います。構造的にみると、古城が戦国時代中期くらいまで、新城はそれ以降に築かれたという 様相を呈しています。このことは、朝比奈氏が今川重臣として発展し、遠江や駿河により要地 の城や所領を得た後も、一族の誰かが本貫に残って城砦を整えて経営に当たっていたという 事実を物語っているように思います。 |
|
南東から朝比奈城跡を望む。 最高所の左手下中腹付近が古城。 同じく右手下中腹付近が新城。 |
|
権現平付近のようす。 居館跡か。 |
|
古城郭内のようす。 | |
古城南東尾根。 土橋状に成形した「一騎駆け」か。 |
|
古城背後の堀切。 | |
新城への分岐点。 | |
新城の尾根で遭遇したカモシカさん。 | |
新城背後の堀切その1。 | |
その2。 | |
その3。 | |
最後尾の曲輪とみられる尾根筋。 | |
主郭の上段と下段を分かつ土壇。 | |
主郭下段先端付近のようす。 | |
主郭下段先端下から主郭を望む。 | |
主郭下段下の曲輪先端部。 | |
新城城域の先端とみられる虎口状地形。 |