花倉城(はなぐら)
 別称  : 葉梨城
 分類  : 山城
 築城者: 今川氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、土橋
 交通  : JR東海道線藤枝駅からバスに乗り、
      「桑原」下車徒歩50分


       <沿革>
           駿河守護今川氏によって築かれたと考えられているが、その時期は詳らかでない。葉梨
          一帯は、南北朝時代初期に足利尊氏から駿河守護職を与えられた今川範国が、はじめに
          拠点とした地域とされる。したがって、早ければ範国が築城主とみることもできる。
           花倉城が歴史の表舞台に登場するのは、今川氏輝亡き後の家督争いである、天文五年
          (1536)の花倉の乱に際してである。氏輝の父氏親の正室・寿桂尼らが、氏輝の弟である
          栴岳承芳を還俗させて義元と名乗らせると、義元の異母兄にあたる玄広恵探がこれに反発
          して挙兵した。
           玄広恵探は方ノ上城と花倉城を拠点としたとされるが、岡部親綱に両城を攻め落とされ、
          花倉城西方の瀬戸谷に逃れたものの、普門庵で自害した。義元から親綱に充てた書状に
          「葉梨城」とあり、花倉城を指すものと考えられている。
           その後の花倉城については不明である。


       <手記>
           花倉の乱の舞台として知られる花倉城は、比高250m以上と高いだけでなく、かなり山の
          奥まったところにあるのが特徴です。車にしろ公共交通機関にしろ、藤枝霊園入口の1つ
          南側の小さな十字路が登城口で、案内も出ています。そこからは柑橘畑などになっている
          山腹を延々と進むことになります。小回りの利く車なら、主城域手前の峰の突き当たりに
          ある、説明板のところまで入れますが、私はちょっと自信がなかったので、適当なところで
          待避所を見つけて駐車しました。
           このルートが大手とされ、説明板の先は土橋となっていて、その中途にごく浅い堀切状
          地形があります。土橋を渡った先からはかなりの急斜面となり、主城域に至ります。城は、
          大きく本曲輪と二曲輪から成り、両者の間と二曲輪の先に堀切が穿たれています。堀切
          はどちらも規模が大きく、また竪堀がかなり下まで続いています。本曲輪の奥には櫓台状
          の土壇が付属していますが、こんな高いところに、さらに櫓建築を上げていたかどうかは、
          個人的には少々眉唾です。
           本曲輪の裏手には堀切は見られませんでしたが、かなり下って支尾根に入ったところに
          堀切があるそうです。ただ、途中まで歩いてみたものの1人ではちょっと迷ってしまいそうな
          雰囲気だったので断念しました。また、二曲輪から南方の尾根を進んだ先にも、もう1つ堀
          があります。その途中は展望台となっていて、海まで続く眺望も楽しめます。
           花倉城については、その存続期間が大きな論点となっています。築城時期については、
          これほどの高所の城ですから、南北朝時代まで遡ってよいのではないかというのが私見
          です。一方の廃城時期については、武田氏による改修の可能性が指摘されています。
           ただ個人的には、武田氏にこんな山奥の城を取り立てる理由があったとは思えません。
          武田氏の駿河における拠点城を見てみると、田中城丸子城・江尻城と、基本的に街道筋
          に並んでいます。武田氏改修説の論拠は、花倉城の堀の規模の大きさにあるようですが、
          今川氏にその規模の堀が作れなかったかといえば、そんなこともないでしょう。
           一方で、花倉の乱の時期の造作かというと、それもまた疑問です。今川家にとって重要な
          意味をもつ城として、義元ないし氏真によって改修を加えられたとみるのが、妥当なように
          思われます。

           
 花倉城跡を望む。
大手口の土橋。 
 土橋の途中の堀切状地形。
急斜面を上がる古道。 
 本曲輪と二曲輪の間の堀切。
堀切から続く竪堀。 
 二曲輪のようす。
二曲輪の土塁。 
 本曲輪のようす。
本曲輪奥の櫓台状土壇。 
 二曲輪先端下の堀切。
堀切から続く竪堀。 
 二曲輪南側尾根からの眺望。


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