高倉城(たかくら)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 畠山政泰
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR東北本線五百川駅徒歩30分


       <沿革>
           二本松城を築いた畠山満泰の長男満盛が早世すると、その遺児徳万丸はまだ幼かった
          ため、満盛の弟持泰(持重)が家督を継いだ。成長した徳万丸が将軍足利義政から偏諱を
          受けて政泰と名乗ると、家督を巡って叔父持泰と争った。敗れた政泰は、明徳年間(1390
          〜94)に高倉へ退いて城を築き、別家を興してなおも対抗した。
           高倉畠山氏は高倉氏とも称し、政泰の跡は満国・実詮・晴賢・氏詮と続いた。5代氏詮は、
          天正三年ないし四年(1575〜76)に田村清顕の圧力に屈し、その幕下となった。
           しかし、天正十年(1582)に田村氏の支配から脱したため、清顕が高倉城へ攻め寄せた
          が、氏詮はこれを撃退した。同十三年(1585)の人取橋の合戦に際しては、清顕の娘婿に
          あたる伊達政宗に属し、高倉城には伊達家臣伊東肥前守・富塚近江守・桑折摂津守らを
          配置した。
           天正十八年(1590)の奥州仕置により、伊達家は安積郡を召し上げられ、氏詮も高倉を
          去った。早ければこのときに廃城となったとみられるが、後任の領主となった蒲生氏郷に
          より、改修されてしばらく使用されたとする見方もある。


       <手記>
           高倉城は、阿武隈川と五百川の合流点に望む比高100mほどの山上に築かれています。
          西麓の山清寺墓地を上がっていくと説明板があり、その脇から山道が通じています。主郭
          まで難なくたどり着ける一方、私が訪れた時点で見学できたのは本丸とその下の帯曲輪
          まででした。城域はかなり広いようですが、帯曲輪の外側は藪に埋もれていて踏査は困難
          です。
           主郭は素晴らしく、本丸の切岸および土塁が高々と残っています。全体像を把握できて
          いないので断言はできませんが、おそらく蒲生氏郷が一時的に取り立てたものと推測され
          ます。というのも、天正十八年の奥州仕置の段階では安達郡が伊達領として残ったため、
          五百川が蒲生領との境界だったとみられ、そうすると高倉城は氏郷にとって最前線の拠点
          だったはずです。
           ところが、翌天正十九年(1591)の葛西大崎一揆の結果、安達郡を含む6郡は没収され、
          氏郷に与えられました。ここにきて、高倉城は蒲生家にとって維持する意義を失います。
          すなわち、氏郷により改修工事が始なったものの、まもなく葛西大崎一揆が勃発してそれ
          どころではなくなり、政宗が安達郡を没収されるに及んで不要となったとすると、高倉城の
          遺構が蒲生氏の築城技術に比べると中途半端に映るのも、説明ができるように思われる
          のです。

           
 城山への登り口にある説明板。
主郭土塁と帯曲輪。 
 同上。
帯曲輪の虎口状地形。 
 主郭の虎口跡。
虎口脇の土塁。 
 主郭の土塁。
主郭のようす。 


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