二本松城(にほんまつ)
 別称  : 霞ヶ城
 分類  : 平山城
 築城者: 二本松満泰
 遺構  : 石垣、曲輪、堀、土塁、井戸
 交通  : JR東北本線二本松駅徒歩20分


       <沿革>
           畠山氏嫡家の畠山国氏は、吉良貞家とともに室町幕府から奥州管領に任命されたが、
          観応の擾乱に際して貞家と対立し、観応二/正平六年(1351)に攻め滅ぼされた。子の
          国詮は、父の所領があったとされる二本松へ逃れ、断続的に抵抗をつづけた。国詮まで
          の館は田地ヶ岡(殿地ヶ岡)にあったが、跡を継いだ三男の満泰は、白旗ヶ峰(白幡山)
          に新たに城を築いて移った。これが二本松城の興りである。
           以後、奥州畠山氏は二本松氏とも称し、中央政権からも奥州管領ではなく、国人領主
          二本松氏として遇されるようになったとみられている。一方で、歴代当主は足利将軍家
          から偏諱を受け、奥州においてそれなりの勢力と格式を保った。
           天正十三年(1585)、伊達政宗に攻められた大内定綱が二本松義継を頼ると、義継も
          伊達氏の攻撃に晒された。義継は政宗に降伏を申し入れたが拒否され、政宗の父輝宗
          に取り成しを依頼し、ようやく和議が成立した。しかし、同年十月八日に宮森城へ輝宗を
          訪ねた義継は、帰りしな見送りに出た輝宗を拉致し、阿武隈河畔で伊達方に撃たれて
          輝宗ともども弑された(粟ノ巣の変)。
           二本松城には義継の子で元服前の国王丸が遺され、政宗の猛攻に遭ったが、一門の
          新城盛継を中心によく城を守った。同年十一月には二本松救援を目的として佐竹氏や
          蘆名氏を中心とする反伊達連合軍が終結し、人取橋の戦いへ発展した。
           同戦いで消耗した伊達氏は二本松城の囲みをいったん解いたが、翌年に攻城を再開
          した。今回も籠城方はよく耐えたが、箕輪玄蕃・氏家新兵衛など城内から内通者が出た
          こともあり、これ以上の戦闘継続は困難と判断し、七月十六日ついに相馬義胤の仲介に
          よって城を明け渡し、国王丸らは蘆名氏を頼って落ち延びた。伊達時代には、二本松城
          は片倉景綱や伊達成実が預かっていた。
           天正十九年(1591)、葛西大崎一揆の扇動を疑われた政宗が、二本松のある安達郡
          を含む6郡を没収され、大崎旧領の岩手沢城(岩出山城)へ減転封を命じられた。没収
          した分は会津の蒲生氏郷に与えられ、二本松城には蒲生郷成や町野繁仍が城代として
          入った。慶長三年(1598)に上杉景勝が新たな会津領主となると、下条忠親・秋山定綱
          両名が二本松城代となった。
           関ヶ原の戦いによって氏郷の子蒲生秀行が会津に復帰すると、梅原弥左衛門と門屋
          助右衛門が二本松城代を務めた。寛永四年(1627)に蒲生家が伊予松山へ転封となる
          と、代わって加藤嘉明が会津藩主となり、その娘婿である松下重綱が5万石の与力大名
          として二本松藩を興した。しかし、重綱は同年中に病死し、跡を継いだ長綱はまだ若年で
          あったことから、幕命により翌五年(1628)に三春藩3万石へ減転封となった。
           代わって嘉明の三男明利がやはり3万石二本松藩主となったが、寛永二十年(1643)
          に病死した。奇しくも同年に会津騒動が勃発し、会津藩主の兄明成が改易され、明利の
          子明勝も連座する形で除封された。
           二本松には、白河藩から丹羽光重が10万石で入封した。光重の父長重は築城の名手
          として知られ、奥州では棚倉城および白河小峰城を手掛けていた。二本松においても、
          奥羽諸藩に対する防壁となる城の整備を期待されていたとみられ、光重の代の改修に
          よって、本丸に石垣が積まれるなど今日に見る姿が完成した。
           慶応四年(1868)の戊辰戦争に際し、二本松藩は奥羽列藩同盟に加わった。同年七月、
          白河小峰城を確保し、三春藩や守山藩を降伏させた新政府軍が迫ると、藩政を主導して
          いた家老の丹羽一学富穀は徹底抗戦を主張した。しかし、仙台藩や会津藩からの援軍
          を加えても兵力は大きく不足しており、また二本松藩の兵装は旧態依然としていたため、
          同月二十九日に新政府軍が東と南から攻め入ると、城外の防衛線はあえなく突破され、
          城下への侵入を許した。もはや城方に抵抗する術はなく、一学以下藩の重臣は城に火を
          放ち、自害して果てた。
           この戦いに際し、兵力不足を補うため、二本松藩では老人や少年も徴発していた。なか
          でも広く知られているのが、木村銃太郎率いるいわゆる「二本松少年隊」であり、隊長の
          木村と副隊長の二階堂衛守のほかは、12歳〜17歳の少年からなる部隊であった。一学
          らが火を放ったとき、彼らは城外ではまだ戦っており、敵中に孤立する形となった。木村
          がすでに戦死していたこともあり、統率者を失った若年兵は次々と銃弾に倒れ、白虎隊と
          並ぶ戊辰戦争の悲劇として語り継がれている。
           病弱であった藩主丹羽長国は、開戦前に避難しており、戦後に降伏して養子の長裕に
          家督を譲って隠居した。二本松藩は存続を許されたが、5万石を削られた。


       <手記>
           二本松城には以前一度行ったことがありますが、そのときは祖父母も一緒で岳温泉に
          旅行した帰りだったので、人目を気にせず思うさま見学できたのは今回が初めてでした。
          丹羽氏の特徴といえる角度のきつい石垣や、復元された櫓門などももちろん素敵だった
          のですが、そんな理由もありとくに印象に残ったのは、近世城郭でありながらところどころ
          に中世的な遺構が見られるという点です。
           洗心亭の上の本宮館は付け根に堀切や竪堀の跡が残り、その上の新城館は尾根筋を
          2段に削平しています。主郭背後の峰続きも石垣を伴わない堀切で断絶し、東尾根には
          乙森や松森館といった雛壇状の腰曲輪群が見られます。美しく眺望にも優れた総石垣の
          本丸はもちろん素晴らしいのですが、中世城郭ファンとしてはそれ以外の山中の遺構に
          ついつい目が行ってしまいました。本宮や新城は二本松氏の有力一門の姓であり、弱小
          ながらも家臣の集住を図り、二本松氏が戦国大名化を志向していた名残のように思われ
          てなりません。現在の二本松城のシンボルとなっている箕輪門も、おそらくは前出の畠山
          家臣箕輪氏の館跡か何かにちなんでいるのでしょう。
           このように、二本松城はつとめて中世的な立地にあり、そのことは城下町とは山ひとつ
          隔てている点からもうかがえます。城内を見透かされないよう防衛線を設けているといえ
          ば聞こえはよいものの、実際には城の直下に町場を開くだけのスペースがなかっただけ
          ではないかと推察されます。中世と近世の見事な融合、これこそが、10万石の国主格で
          あった丹羽家の腕の見せ所だったのではないかと、個人的には感じています。

           
 箕輪門を見上げる。
箕輪門と二本松少年隊の像。 
 箕輪門と枡形。
箕輪門に続く塀重門跡。 
 二の丸下段(三の丸とされる場合もあり)。
同じく二の丸上段。 
 霞ヶ池。 
本宮館の切岸。 
 本宮館先端部の削平地。
本宮館の土塁。 
 本宮館付け根の堀切跡。
同上。 
 主郭背後の土塁。
主郭背後の空堀跡。 
 主郭背後の堀切跡。
同上。 
 とっくり井戸。
とっくり井戸付近から本丸天守台石垣と 
その下の2段石垣を見上げる。 
 搦手門跡。
新城館。 
 新城館上段から下段削平地を俯瞰。
新城館下段から見た上段切岸。 
 本丸南西隅の石垣。
本丸北西辺の石垣。 
 本丸北東隅の天守台石垣。
修復に際し、移設保存された石垣。 
 本丸の枡形虎口。 
本丸のようす。 
 天守台から安達太良山を望む。
天守台から城下方面を望む。 
 乙森を望む。
乙森の石垣跡。 
 本丸南面下の大石垣。
蔵屋敷跡。 
 日影の井。
 千葉県印西市の龍崖城下にある月影の井、
 鎌倉の星影の井と並ぶ「日本三井」の1つ。
煙硝蔵跡。 
 旧城内路。
松森館跡。 
 城内を横切る二合田用水。
 寛文年間(1661〜63)の開削だそうです。
新御殿の石垣。 
 新御殿脇を抜ける大手道。


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