浅川城(あさかわ)
 別称  : 青葉城
 分類  : 山城
 築城者: 浅川氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR水郡線磐城浅川駅徒歩30分


       <沿革>
           浅川氏の居城とされるが、築城の経緯は定かでない。浅川氏は石川氏の一族とも、甲斐
          源氏の浅利与一義遠(義成)の子知義が浅川の所領を与えられたことにはじまるともいわ
          れるが、戦国末期の系譜は明らかでない。
           天正二年ないし三年(1574〜75)、浅川次郎左衛門は石川氏とともに佐竹氏に通じ、佐竹
          義重の赤館攻略に寄与した。翌四年(1576)、白河結城氏が赤館を奪還すると、浅川城も
          同氏の攻撃を受けたとされる。しかし、同七年(1579)には結城氏自体も佐竹氏に屈した。
           天正十七年(1589)に蘆名氏が伊達氏に攻め滅ぼされると、浅川氏と石川氏も伊達政宗
          に臣従した。翌十八年(1590)には佐竹軍が攻め寄せたが、落城しなかったとされる。同年
          の奥州仕置により石川氏が改易となると、浅川氏は石川昭光とともに伊達家に仕えたため、
          浅川城は廃城となった。


       <手記>
           浅川市街を見下ろす悠然とした山が浅川城跡で、現在は花の名所の城山公園として整備
          されています。車であれば主郭直下まで登ることができ、駐車スペースも完備されています。
          圧巻なのは主郭背後に続く堀切群と曲輪群でしょう。堀切は最低でも4条連なり、その間に
          土塁や虎口をもった曲輪が設けられています。この曲輪群のど真ん中を林道が貫いていて、
          もちろん遺構が削られているのは残念なのですが、他方で皮肉にも堀切と曲輪の断面図を
          横から見られるという点では貴重にも思います。
           山頂の主城域は主郭と副郭の大きく2郭から成っています。北側背後の曲輪群のほか、
          南と東の尾根筋にも曲輪群や堀跡が見られますが、こちらは道路建設以外の造成などでも
          不明瞭になってしまっている様子です。
           このように、浅川城は規模が大きく造作がしっかりしており、少なくとも、石川氏の分家が
          独力で守り切れるような城ではありません。しかしながら、『日本城郭大系』では浅川城に
          ついて、「中世初期のものからほとんど進歩」していないと卑小に評しています。その理由は
          一大岩盤で傾斜が急だからとのことですが、現状の浅川城跡に岩盤が露出しているような
          箇所はほとんど見られず、傾斜も西側を除けばむしろ緩やかといえます。『大系』の著者は、
          どこか別の城と取り違えているのではないかというくらい、記述の内容と現地の状況が喰い
          違っています。
           私見としては、今日の遺構は佐竹氏ないし伊達氏によって完成されたものと思われます。
          城の中心部は、山頂の主郭と副郭で成っていることから、もともとの浅川氏の城はこの2郭
          +α程度の範囲だったと考えるのが妥当でしょう。

           
 浅川城跡を望む。
説明板。 
 副郭のようす。
主郭の切岸。 
 主郭のようす。
主郭背後の堀切。 
 主郭背後2条目の堀切。
主郭背後の曲輪群の1つ。 
 その背後の堀切。
 土塁と虎口が見えます。
最後尾とみられる堀切。 
 主郭南尾根の堀切と土塁跡。
南尾根の曲輪跡のようす。 
 東尾根の竪堀跡。
城山からの眺望。 


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