赤館(あか)
 別称  : 赤館城、台城
 分類  : 山城
 築城者: 白河結城氏か
 遺構  : 曲輪、切岸
 交通  : JR水郡線磐城棚倉駅徒歩20分


       <沿革>
           築城年代は不明であるが、文明年間(1469〜87)に白河結城氏の一族の赤館源七郎が
          居住していたとされる。『日本城郭大系』によれば、赤館はいったん廃城となり、永禄三年
          (1560)に蘆名盛氏が再興して上遠野美濃守を城代としたとされる。しかしながら、たしかに
          結城晴綱は最有力分家である小峰義親の妻に盛氏の娘を迎えているものの、盛氏が直接
          この地に命令を下せたとは考えにくい。
           元亀三年(1572)、佐竹義重が数度にわたり赤館に攻め寄せたが、蘆名氏の援軍もあり
          撃退に成功した。天正二年(1574)に再び攻撃を仕掛けた義重は、やはり結城・蘆名連合
          軍に何度か退けられるものの、浅川城主浅川次郎左衛門を味方に引き入れ、同年十一月
          ないし翌三年(1575)に、ついに赤館を奪取した。
           翌天正四年(1576)、白河結城宗家を継いだ義親は、軍勢を天王館に集結させて赤館を
          夜襲して奪還した。しかし、蘆名氏の勢力が後退したために佐竹氏に抵抗しきれなくなり、
          同七年(1579)に義重の次男義広を養子に迎えて臣従した。赤館には、佐竹家重臣和田
          昭為、次いで松野篤通が城代に入ったとされる。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、義重の子義宣は徳川家康の上杉征伐に応じた
          ものの、赤館まで来たところで進軍を止めた。同七年(1602)に佐竹家が出羽へ転封となる
          と、赤館はいったん廃城となったとみられる。
           慶長九年(1604年)、立花宗茂が南郷に5千石を与えられ、同十五年(1610)に赤館など
          1万5千石を加増されて大名となった。宗茂は赤館に居城したが、元和六年(1620)に筑後
          柳川藩へ加増・転封になった。
           元和八年(1622)、丹羽長重が江戸崎藩から5万石で入部した。長重は赤館に入ったが、
          寛永元年(1624)に棚倉城を新たに築いて移り、赤館はついに廃城となった。


       <手記>
           赤館は棚倉の街を見下ろす山の上にあり、赤館公園として整備されています。というより、
          整備されすぎていて城跡の痕跡はだいぶ希薄になっている印象です。公園化されている
          のは主郭とその周辺で、それ以外の部分は藪に覆われてしまっています。
           現地には説明板があり、そこに記載されている縄張り図によれば、周囲の尾根筋などに
          堀や土塁などがあるようなのですが、ちょっと踏査は難しそうです。現状で目にできる遺構
          としては、主郭外周にわずかに残る土塁と、西側を除く三方の帯曲輪といったところです。
          結城氏と佐竹氏の係争点であり、近世まで使用されていた貴重な城館跡にしては、やはり
          残念な保存状況のように感じました。

           
 赤館跡説明板。
主郭のようす。 
 主郭北西隅の最高地点。
主郭南端付近。 
 主郭からの眺望。
 中央に棚倉城跡。
主郭南下の帯曲輪。 
 主郭切岸と東下の帯曲輪跡。
主郭北東端の土塁。 
 主郭北東隅下の帯曲輪。
主郭北東隅付近の土塁。 


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