麻生陣屋(あそう)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 新庄直頼
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR鹿島線潮来駅よりバス
       「麻生」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           高槻城3万石の大名であった新庄直頼は、関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易されていたが、
          慶長九年(1604)に赦されて常陸・下野国内に3万石余を与えられた。直頼は麻生に陣屋を構え、
          麻生藩が成立した。
           5代藩主直矩は延宝四年(1676)に嗣子なく17歳で急逝し、麻生藩は無嗣改易となった。しかし、
          4代藩主であった直時が、まもなく新たに1万石を与えられて麻生藩は再興された。直時は直頼の
          四男直房の子で、3代藩主直好の養子となっていたが、直好の晩年に実子直矩が誕生したため、
          直矩の成人まで中継ぎの藩主を務めていた。直時は直矩が15歳のときに隠居し、藩から7千石を
          分知され旗本となっていた。直時の再任以降、10代を数えて麻生藩は明治維新を迎えた。
           行方市観光協会のパンフレットによると、陣屋が完成したのは元和五年(1619)のことで、安政
          三年(1856)に大火によって焼失した後、再建されたとされる。


       <手記>
           麻生陣屋は、霞ケ浦南東岸の三方を丘陵に囲まれた平地にあり、西に城下川が流れています。
          現在、陣屋跡は麻生小学校となっており、玄関前に説明板があります。安政期に再建された陣屋
          の古絵図によると、ほぼ小学校東側と合致する縦長の長方形をしていたようです。今の小学校は
          西側に少し出っ張っていますが、この部分は明治二年(1848)に建てられた藩校精義館の敷地だ
          そうです。
           私が訪れた時には、学校の周囲の道路と校庭が改修工事中でした。とくに東側は大きく掘り起こ
          されて道のルートなども改変されているようで、旧観を偲ぶのは困難な状況です。学校の西側には
          土塁跡のような盛り上がりがあるのですが、前述のとおりこのあたりは明治になってからの藩校の
          跡なので、小学校建設に伴うものである可能性が高いと推測されます。歴史群像シリーズの『城と
          陣屋総覧』には土塁と堀跡が残るとありますが、古絵図には土塁らしきものは見受けられず、木塀
          に囲まれただけの屋敷に描かれているため、どこを指しているのか不明です。
           陣屋跡の南東には家老畑家の屋敷がほぼ完全に保存されており、こちらの方がみどころとなって
          います。陣屋同様、安政の大火後に再建されたものということです。時代劇に登場するような立派な
          家老屋敷とは程遠く、表門は長屋門ではなく棟門で、母屋は茅葺きという非情に質素なつくりです。
          畑家は麻生藩の筆頭家老ということですが、1万石の筆頭家老という現実的な水準を垣間見ることが
          できて、とても興味深かったです。
           問題は、麻生は交通の便が悪いという点です。上記の潮来駅からのバスは朝晩の2〜3本しかあり
          ません。公共交通機関を利用するなら、もっとも簡便なのは東京駅八重洲口からの高速バスです。
          これに乗れば麻生庁舎バス停まで直行することができますが、やはり車で訪れるのが無難と思われ
          ます。

           
 麻生陣屋跡説明板。
陣屋跡のようす(麻生小学校)。 
 土塁跡か。小学校西側。
 ただし、この部分は藩校精義館跡にあたります。
家老畑家の屋敷。 


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