洞城(ほら) | |
別称 : 麻生野城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 麻生野直盛か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : 神岡市街から車で10分 | |
<沿革> 大永年間(1521〜28)に、江馬時経の次男麻生野直盛によって築かれたと伝わる。 直盛の兄時盛は親武田派であったが、時盛の子とされる輝盛は親上杉派であったため、 江馬氏の帰属を巡って両者は対立していた。時盛は武田氏の人質となっていた三男信盛 に家督を継がせることを考えていたとされるが、元亀四年(1573)四月に武田信玄が病没 すると、輝盛は時盛を殺害して家中を掌握した。このとき、同じく親武田派であったとされる 直盛の子慶盛も攻め滅ぼされた。時盛・慶盛の殺害は、天正六年(1578)のこととする説も ある。その後の洞城については詳らかでない。 <手記> 麻生野谷川に架かる豊洞橋を渡ると「松ヶ丘公園斎場」と書かれた看板があり、その角を 曲がったところに洞城跡の標柱があります。城跡へはその先すぐ右手の林道に入り、適当 なところで沢を越えて斜面を直登します。先人の諸サイトによるとかつては尾根筋先端から 登り道があったそうですが、私が訪れたときにはほとんど分からなくなっていました。 沢沿いの斜面はそれなりに急で、登りやすいところを探して這い上がったところ、そこは ちょうど竪堀でした。敵を誘導する防御設備にまんまと嵌ったわけで、竪堀の有用性を実証 すると同時に、もし私が当時の攻城兵だったらこの時点でジ・エンドだなぁと、妙な感慨にも 耽ってしまいました。 竪堀を登った先は、主郭と副郭の間の堀切となります。副郭は先端に虎口が残り、また 竪堀を挟んで主郭・副郭両サイドの下に帯曲輪が設けられています。 主郭は奥に土塁があり、烽火台ないし櫓台だったものと思われます。一部に基壇石積み の痕跡が見られますが、城の遺構かどうかは不明です。土塁の背後は大きな堀切となって いて、なかなか見ごたえがあります。また、土塁の切れ目でもある主郭南東隅付近に虎口 が開いていて、その下に竪土塁のような地形が認められます。 洞城は、お隣の石神城と比べると、やや技巧的な縄張りをしているといえます。石神城の 築城時期は洞城より遅い天文年間(1532〜55)とされていますが、構造面では洞城の方が 先進的といえるでしょう。おそらく、石神城が築城時そのままの姿なのに対し、洞城は改修 が加えられていると考えられます。あくまで個人的な推測ですが、1560年代に武田氏重臣 山県昌景らが江馬氏のもとに派遣されたころに、親武田派の麻生野氏の洞城にも、改修の 手が入ったのではないでしょうか。 |
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洞城跡近望。 | |
城址標柱。 | |
主郭のようす。 | |
主郭奥の土塁。 |
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土塁と基部の石積み。 | |
土塁背後の堀切。 | |
主郭南東隅付近の虎口。 | |
虎口下の竪土塁状地形。 | |
主郭南側の帯曲輪。 | |
同じく北側の帯曲輪。 | |
主郭と副郭の間の堀切。 | |
同上。 | |
堀切から北に延びる竪堀。 | |
同じく南に延びる竪堀。 | |
副郭のようす。 | |
副郭先端の虎口。 |