館城(たて)
 別称  : 館村御立退所、新城
 分類  : 平城
 築城者: 松前藩
 遺構  : 堀、土塁、井戸
 交通  : 江差市街から車で30分


       <沿革>
           慶応四年(1868)に戊辰戦争が勃発すると、松前藩ははじめ奥羽列藩同盟に加わって
          いたが、同年七月に勤王派の下国東七郎や鈴木織太郎ら40名余の家臣団がクーデター
          を起こし、病床の藩主・松前徳広の隠居を押しとどめて藩政を握った。正義隊と名乗った
          下国らは、新政府が設置した箱館府に対し、福山城から厚沢部川流域への居城移転を
          申請した。築城地は館村に定められ、新政府への請願と並行する形で、九月十一日から
          普請が始められた。
           松前氏累代の居城である福山城から、内陸の未開拓地である館村への移転を図った
          背景には、まず海沿いの福山城が海上からの攻撃に弱いという防備上の理由がある。
          それ以上に、下国らは海洋交易偏重の経済を改め、平野部を開墾して農業を振興しよう
          としていたといわれる。さらに、正義隊のクーデターを支援していたのは江差の商人たち
          であったとされ、厚沢部川流域が開発されれば物資の集積地として江差のさらなる繁栄
          が見込まれることから、彼らの援助を期待できるという政治・経済上の思惑も大きかった
          とみられている。
           工事は突貫で進められ、十月下旬までには、建物は簡素ながら本丸周辺は完成した
          とされる。十月二十五日に旧幕府軍が五稜郭を占拠し、松前藩に合力を求めたが、藩は
          使者を斬ってこれを拒絶した。同二十八日、旧幕府軍の土方歳三らが松前へ進軍すると、
          徳広らは館城へ向かい、松前城は十一月五日に落城した。
           続いて土方勢は江差回りで館城を目指し、また別動隊が箱館から中山峠を越えて挟撃
          を図った。松前藩兵との野戦を経て、中山峠越えの松岡四郎次郎率いる200余名が先に
          館村へ到達すると、十月十五日に館城総攻撃が敢行された。
           徳広らは事前に厚沢部川河口へ待避しており、城兵は60名程度であったとされるが、
          双方とも大砲を有していなかったこともあり激しい白兵戦となった。とくに、僧でありながら
          藩の軍事方を務めていた三上超順は、片手に太刀を、もう片手に盾代わりの俎板を構て
          奮闘し、敵方の将・伊奈誠一郎を斬り伏せるも、壮絶な討ち死にを遂げたと伝わる。城は
          数時間の後に陥落し、旧幕府軍によって火をかけられた。
           館城の存続期間はわずか75日といわれるが、館城移転以後の松前藩は館藩と呼ばれ、
          明治四年(1871)の廃藩置県後も2か月間だけ館県が存在した。


       <手記>
           館城は厚沢部川とその支流の糠野川が三方を緩やかに囲む台地上に位置しています。
          台地の西麓にまず城門風のモニュメントと説明板があり、本丸周辺は公園とまでいかない
          ものの、国の史跡として整備されています。
           完成を見た本丸付近だけでは、平らな台地のただ中にある陣屋といった風で、要害性は
          ほとんどみられません。ただ『日本城郭大系』によれば、将来的には三の丸まで拡張され、
          南側の丸山には隠し郭を設ける計画であったとされ、正義隊としては明治新政府のもとで
          遠大な未来図を有していたようです。とはいえ、近代城郭の選地としてはやはり不自然の
          感は否めなかったのですが、戊辰戦争を受けて取り急ぎの防衛拠点として築いたのでは
          なく、厚沢部川流域から江差にかけての開発を見込んでの移転であったと知るに及んで、
          ようやく合点がいきました。どうみても館城の選地は、戦うためとは思えなかったので。
           石碑や説明板の建つ本丸には井戸跡が2つあり、その間に役所があったようです。また
          本丸の北側には、賄部屋および米倉の建つ副郭があったようですが、全体像については
          まだ調査の途上とみられます。突貫工事とて塀ではなく木柵が巡っていたとみられ、正門
          があったとされる本丸の西側には、柵列の途切れる箇所が検出されているそうです。
           現存遺構として最も目につくのは、本丸南側の百間堀です。いかめしい名称の通り長大
          な空堀で土塁を伴っていますが、いかんせん幅が狭く、戦国時代の籠城戦でもどれほどの
          時間を稼げたか怪しい感じでした。百間堀の南側が丸山と呼ばれる小丘で、登ると城内が
          くまなく俯瞰できます。斜面に複数の胸壁が見られるのですが、攻防どちらが構築したのか
          は不明です。丸山はどう見ても城の最大の弱点なので、死守したい守備側が土塁を設けた
          のかもしれませんが、60名の手勢ではこちらに兵を割く余裕はなかったでしょう。
           このように、館城は未完のまま75日で廃されたため、その重要性を語ることは困難です。
          ただ、戊辰戦争の激戦地の1つとして、あるいは日本最後の和式城郭として、人々の関心を
          呼んでいます。

           
 台地西麓の城門風モニュメント。
その脇の説明板。 
 本丸跡を望む。
本丸跡の標柱。 
 同じく城址碑。
本丸の井戸跡。 
 同じく西側の井戸跡。
本丸西辺の土塁および堀跡か。 
 同じく北辺か。
賄部屋や米倉があったとされる副郭跡を俯瞰。 
 百間堀の土塁を望む。
百間堀。 
 同上。
丸山から城内を俯瞰。 
 丸山斜面の胸壁。


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