足助城(あすけ)
 別称  : 真弓山城、松山城
 分類  : 山城
 築城者: 足助鈴木氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、井戸跡
 交通  : 名鉄三河線猿投駅/名鉄豊田線上豊田駅/
      愛知環状鉄道四郷駅からバスに乗り、
      「一の谷口」下車徒歩25分


       <沿革>
           伝承では、鎌倉時代の御家人足助氏が築いた「足助七屋敷(七城)」の1つとされている
          が、発掘調査からは同時代以前の遺物が検出されなかったことから、今日では否定する
          向きが強い。一般には、戦国時代に足助鈴木氏によって築かれたとみられている。足助
          鈴木氏は矢並を本貫とする三河鈴木氏の一族で、鈴木重就の子忠親が、15世紀後半に
          移り住んだことに始まるとされる。発掘調査からも同時代の遺物が出土されているため、
          真弓山に最初に城を築いたのは忠親とみられている。
           大永五年(1525)、松平清康が2千余騎をもって足助へ攻め寄せたとされる。鈴木氏は
          降伏し、清康の姉ないし妹の久が忠親の孫にあたる鈴木重直に嫁いだ。しかし、松平氏
          が今川氏に従属すると鈴木氏との関係も弱まったとみられ、桶狭間の戦い後の永禄七年
          (1564)に、重直は松平(徳川)家康に改めて攻められ降伏した。
           『下条記』によれば、足助城は元亀二年(1571)に武田氏重臣秋山虎繁(信友)に攻め
          落とされ、下條信氏が城番として入ったとされる。信氏は翌三年(1572)に岩村城へ移り、
          その翌天正元年(1573)に、家康の嫡男信康が初陣で足助城を奪い返したとされる。
           城主には重直が復帰したが、天正十八年(1590)に家康が関東へ移封となると鈴木氏
          もそれに従い、足助城も廃城となったもみられている。


       <手記>
           足助城は、第1次平成の築城ブームでも早い段階で建物の復元が試みられた城です。
          とくに戦国時代の様子をできるだけ忠実に再現しようとしている点で、当時としては先進
          的といえるでしょう。2階建ての小さな高櫓に丸太で組んだ木柵、竹組みの粗末な跳ね
          上げ戸など、中世城郭ファンの私としてはとても楽しめるテーマパーク(笑)でした。他方
          で、建物のデザインについてはあくまで推測なわけで、西の丸の物見台は少々大きすぎ
          ではないかとか、高櫓の2階が畳敷きなのはさすがにおかしいでしょうとか、額面どおり
          に喜べない部分ももちろんありました。切岸面に蛇篭が詰まれている箇所もあり、現代
          の建築条件では、やはり完全な再現は難しいのかなとも感じます。
           さて、真弓山は標高307mと、周辺諸城と比べるとかなり高いところに築かれています。
          鈴木氏の地力を考えれば目の前の飯盛山城だけで充分という気もするのですが、それ
          でも初代忠親のときから真弓山城に拠っていたとするなら、あるいは当時まだ飯盛山に
          足助氏が残っていたのかもしれません。
           また、足助七屋敷(七城)と呼ばれるとおり、足助城の周辺には支城がいくつもあった
          ようですが、これらも鈴木氏単体ですべて有効活用できるほどの兵力があったとは思え
          ません。少なくとも真弓山城と飯盛山城以外については、徳川家康と武田信玄の間で
          緊張関係が高まるなかで築かれた可能性を考慮する必要があるかと思われます。

           
 本丸の高櫓と長屋。
同上。 
 高櫓から足助市街方面を望む。
 左手奥に見えるピークが飯盛山。
本丸から堀切越しに南物見台を望む。 
 南の丸の厨。
厨内部のようす。 
 かまど小屋。
跳ね上げ戸。 
 西物見台。
西の丸。 
 西の丸下段腰曲輪。
井戸跡。 
 堀切越しに南の丸を望む。
 入園ゲートを抜けて最初に見える景色です。
巴川越しに真弓山を望む(画面奥頂上)。 


BACK