飯盛山城(いいもりやま) | |
別称 : 飯盛城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 足助氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : 名鉄三河線猿投駅/名鉄豊田線上豊田駅/ 愛知環状鉄道四郷駅からバスに乗り、 「一の谷口」下車徒歩20分 |
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<沿革> 鎌倉時代の御家人足助氏累代の居城とされる。足助氏は清和源氏満政流で、尾張国 を本貫とする浦野重直の六男重長が、平安時代末期に三河国加茂郡足助荘の荘官と なったことにはじまる。飯盛山城は重長によって築かれたともいわれるが、築城時期に ついて確証はない。重長の娘は鎌倉幕府2代将軍源頼家の室となり、『吾妻鏡』によれば 公暁を産んだとされる。 鎌倉時代末期の元弘元年(1331)、足助重範は後醍醐天皇の下へ馳せ参じ、笠置山の 戦いで奮戦した。しかし、同年中に笠置山が陥落すると、重範も捕えられ翌二年(1332) に処刑された。重範の娘滝野は、南北朝の戦乱を避けて下向してきた二条良基に仕え、 犬山城主成瀬家の祖となる成瀬基久を産んだとされる。飯盛山には、滝野が帰京した 良基を慕って手元に置いていた装束を、良基の死後に埋めたと伝わる装束塚がある。 ただし、良基が足助を訪れたという記録は見られない。 南北朝時代には、足助氏は南朝を支持して戦ったとされるが、いつしか歴史の表舞台 から消えていった。15世紀後半には、三河鈴木氏の一族鈴木忠親が真弓山城を築き、 足助鈴木氏として盤踞した。飯盛山城は鈴木氏の支城として存続したものとみられるが、 いつどのように足助氏から鈴木氏の手に渡ったのかは定かでない。以降、飯盛山城は 真弓山城(足助城)と運命を共にしたと考えられる。 天正十八年(1590)、徳川家康が関東へ移封となると、足助鈴木氏もこれに従った。 飯盛山城も、このときに廃城となったものと推測される。 <手記> 桜と紅葉の名所香嵐渓に臨む飯盛山は、巴川と足助川に三方を囲まれた独立山です。 より高い真弓山に足助城が復元整備されていますが、観光施設を建てるなら飯盛山の 方が映えると思いますし、事実、当初は飯盛山城の復元を企図していたそうです。ただ、 飯盛山は県史跡に指定されていて手続きが面倒だったこともあり、断念して真弓山へ シフトしたという経緯があります。 飯盛山は自然公園として整備されていて、とくにカタクリの群生地となっています。私 が訪れたときにはもう盛りは過ぎてしまっていたようで、花はたくさん咲いていたものの どれもしおれてしまっていました。 登山道はいくつかあるようですが、城に関する石碑のある北西麓から登り、香積寺に 下りるルートがおすすめです。観光スポットの山なので楽勝かと思いきや階段がかなり 急で、花を愛でに来ただけのお年寄りなんかは、さぞ参ってしまうのではないかと思い ました。 山頂が近づいてくると、登山道の脇に明らかに腰曲輪とみられる尾根筋の平場など が見えてきます。と、あと一歩というところまで来たとき、なんと山頂周辺が何かの整備 で立ち入り禁止とのこと…。とくに作業をしている様子はなかったので、強行突破しよう かとも思いましたが、迷惑な撮り鉄と同類になるわけにもいかず、泣く泣く主郭入りを 諦めました。 香積寺へ下りる途中にも、堀や曲輪の跡と思われる地形がみられます。また、ルート 上には前出の装束塚や、鈴木氏5代の墓などもあります。香積寺はとても立派なお寺 で、境内の入り口には人の背丈の倍以上はある巨大な土塁が立ち塞がります。境内 は足助氏の館跡とされ、土塁も当時とされていますが、個人的にはちょっと規模が大き すぎるのではないかと感じました。そもそも香積寺は、目の前には風光明媚な香嵐渓 の景色が広がるだけで、領主がここに居館を設ける理由がまったくありません。普通 に考えれば、館は今も宿場町の面影の残る足助市街地か、真弓山との間の鞍部付近 にあったとみるべきでしょう。 |
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巴橋から飯盛山を望む。 | |
北西麓の城跡に関する石碑。 | |
登山道のようす。 | |
腰曲輪か。 | |
同上。 | |
同上。 | |
堀跡か。 | |
香積寺へ下りる途中の削平地。 | |
香積寺。 | |
香積寺境内の土塁。 | |
おまけ:飯盛山のカタクリ。 |