犬山城(いぬやま)
 別称  : 白帝城、乾山の砦
 分類  : 平山城
 築城者: 織田広近
 遺構  : 天守、石垣、堀
 交通  : 名鉄犬山駅徒歩20分


       <沿革>
           文明元年(1469)、尾張上四郡守護代岩倉織田氏(織田伊勢守家)の祖である織田敏広の
          弟の広近が、木ノ下城を築いて移った際、乾山に砦が築かれたのがはじまりとされる。美濃の
          斎藤妙椿への備えとされるが、後に敏広は妙椿の養女を妻に迎え、岩倉織田氏と斎藤氏は
          協力関係となった。そのため、広近は居城を小口城に戻したとみられる。広近の長男寛広は
          兄の跡を継ぎ、次男寛近は小口城主に収まった。
           その後、しばらく木ノ下城および乾山の砦の動向は不詳となる。明応5年(1496)に妙椿の
          養子妙純が戦死すると、岩倉織田氏は衰退し、天文六年(1537)までには、下四郡守護代
          清洲織田氏(織田大和守家)の出身とされる織田信安が家督を継承した。当時、信安はまだ
          幼少だったことから、大和守家の家臣筋で清洲三奉行の1人であった織田信秀の弟信康が、
          後見として乾山の砦を修築し、居城としたとされる。犬山城の呼称も、このときに付けられた
          ものと考えられる。
           信康の子の信清は、勢力を伸ばす従兄の信長と対立し、永禄七年(1564)に犬山城を攻め
          落とされた。信清は犬山鉄斎と名乗り甲斐へ落ち延び、武田氏を頼った。犬山城の扱いは
          またしばらく定かでなくなるが、元亀元年(1570)に池田恒興が1万貫で入城したとされる。
          天正九年(1581)には、武田家から返還された信長の五男勝長(信房)が、犬山城主に据え
          られたとされる(『信長公記』)。
           勝長は翌天正十年(1582)の本能寺の変で戦死し、清洲会議で信長の次男信雄が尾張
          国主となると、家臣中川定成が犬山城に入れられた。同十二年(1584)に小牧・長久手の
          戦いが勃発すると、犬山城はその前哨戦として大垣城主池田恒興に急襲され、奪われた。
          羽柴秀吉は犬山城を本陣とし、小牧山城の信雄および徳川家康と対峙した。同年十一月に
          和議が成立すると、犬山城は信雄に返還され、再び定成が城主となった。
           天正十八年(1590)に信雄が改易されると、その旧領は羽柴秀次に与えられ、秀次の父
          三好吉房が犬山城10万石を領した。文禄四年(1595)に秀次が切腹を命じられると、石川
          貞清が1万2千石で犬山城主となった。貞清は城の大規模な修築を行ったとされ、このとき
          に美濃金山城の建物一切を解体・移築した「金山越」の伝承がある。しかし、昭和の解体
          修理の際に移築の痕跡がみられなかったことから、今日では否定されている。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、貞清は西軍に属し、稲葉貞通・加藤貞泰・関一政・
          竹中重門らと犬山に籠城した。しかし、いざ城が攻められると、貞清以外の諸将はこぞって
          東軍に帰順した。持ち堪えることができなくなった貞清は、城を棄てて西軍本隊に合流した。
          戦後、貞清は改易され、尾張国は家康の四男松平忠吉に与えられた。
           犬山城には附家老の小笠原吉次は入り、吉次によって近世城郭の体裁と城下町が整備
          されたとされる。慶長十二年(1607)に忠吉が没すると、吉次は江戸へ召還され、代わって
          尾張藩主となった徳川義直の附家老平岩親吉が犬山城主となった。同十六年(1611)に
          親吉が死去すると、犬山領11万3千石は尾張藩に収公されたとされるが、甥の吉範が元和
          三年(1617)まで引き継いで統治したとする説もある(『犬山藩史』)。
           この年、新たな附家老に任じられた成瀬正成が、3万石で犬山城主となった。3代正親の
          代には5千石が加増され、幕末まで成瀬家9代が世襲した。成瀬家はあくまで尾張徳川家
          の附家老であり、独立した藩とは認められていなかったが、大政奉還後の慶応四年(1868)
          に犬山藩が正式に成立し、3年後の廃藩置県まで存続した。
           明治二十八年(1895)、犬山城は最後の藩主であった成瀬正肥に修復などを条件として
          無償譲渡された。これにより、平成十六年(2004)に法人管理へ移行するまで、全国で唯一
          個人が所有する現存の城となった。


       <手記>
           言わずと知れた国宝なので、ここで多くを語る必要はないでしょう。私が初めて訪れたのは
          中学のときの家族旅行で、当時はまだデジカメもなく、また城も個人所有でした。縄張り上の
          特徴は、大手道が他の曲輪を経由することなく本丸まで通じていることでしょう。この構造は
          安土城や小牧山城にも見られ、実戦での防御よりも見せる城としての権威的な側面に重き
          を置いているといえます。すなわち、信長の城づくりの影響をモロに受けた、限定的な時代を
          反映する貴重な縄張りといえるものと考えています。
           一方、城山の西辺に施された空堀は、成瀬正成が構築したものといわれています。また、
          新郷瀬川を挟んだ城山の東麓には外堀の一部が池のような形で残っていますが、こちらは
          ホテルインディゴ犬山有楽苑の駐車場敷地内となっていて、宿泊者でなければ西側の道路
          からそっと眺める程度です。
           今回、25年ぶりくらいに訪れて印象的だったのは、城から南に延びる城下町の通りです。
          江戸時代っぽい城下町の雰囲気が整備されていてたくさんのお店が並び観光客で大いに
          賑わっていました。雰囲気的には、首都圏にとっての川越と同様の、中京圏の小江戸的な
          スポットになっているのかな、という感じです。川越城には天守がないので、通りから国宝
          天守がずっと見えているというのは、むしろ大きなアドバンテージのように思いました。

           
 木曽川岸の白帝城の姿。
天守を見上げる。 
 西側中腹の空堀。
 成瀬正成の構築といわれています。
同上。 
 大手道。
天守。 
 天守を真下から。
天守から城下方面を望む。 
 同じく伊木山方面を望む。
搦手の七曲門跡。 
 同上。
木曽河岸へと降りる七曲りの道跡。 
 外堀跡を望む。
城下町のようす。 
奥に天守が見えます。 


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