秋月城(あきづき)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 秋月氏
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR徳島線鴨島駅から車で20分


       <沿革>
           土豪・秋月氏の居館として築かれたとみられるが、その経緯は不明である。秋月氏の
          出自も定かでなく、文永年間(1264〜75)に守護・小笠原氏から後嗣を迎えたとされる。
           建武三/延元元年(1336)、足利尊氏が九州へ落ちて再起を図った際、細川和氏と
          従兄弟の細川顕氏が四国での足固めとして阿波に派遣され、秋月氏の館に迎え入れ
          られた。秋月城はそのまま阿波細川氏の守護所となったが、和氏の子・清氏は幕府の
          政争に敗れ、康安二/正平十七年(1362)に従弟の細川頼之に討伐された。
           代わって頼之の弟の詮春が阿波に入国したが、翌貞治二/正平十八年(1363)に
          勝瑞城を築いて移ったとされる。ただし、勝瑞城の築城時期には諸説あり、秋月城から
          の移転時期についても確証はない。いずれにせよ、阿波細川氏が勝瑞へ移った後は、
          秋月中務大輔が秋月城主となった。
           『城跡記』によれば、戦国時代には秋月五郎左衛門光秋が城主であったととされる。
          現地の石碑には、天正七年(1579)に長宗我部軍の兵火に遭って落城したといわれる
          とある。その後の秋月城については定かでない。


       <手記>
           秋月城は指谷川とその旧河道とみられる堀状地形に囲まれた、、ゾウリムシ状の浮島
          地形に築かれています。同様の選地は相模の波多野城にもみられ、距離的に偶然の
          一致とは思いますが、時代的にも近似しており、一つの傾向として注目されます。
           城内を県道が横断し、その北側は墓地、南側は水田となっています。墓地側に城址碑
          などが建っていますが、堀状地形や土塁状地形のほかはとくに遺構らしきものは見られ
          ません。また背後の山上は高丸と呼ばれ、望楼があったと伝わるものの、やはり明瞭な
          遺構はないようです。

           
 秋月城跡主郭部近望。
城址碑。 
 的場跡の石碑。
主郭上段のようす。 
 主郭切岸を背後から。
南西に隣接する神明池。 
 城域南半のようす。
南端付近のようす。 
 主郭部越しに高丸を望む。


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