東山城(ひがしやま)
 別称  : 池田城
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR土讃線阿波池田駅からバスに乗り、
      「敷地」下車徒歩40分


       <沿革>
           南北朝時代初期に、南朝方の新田氏一族が拠ったと伝えられる。
           『阿波志』によれば、白地城主大西頼武の三男大西備中守が天正五年(1577)に長宗我部
          元親との戦いで立て籠もったものの、落城したとされる。頼武の子の備中守には大西信武が
          あり、翌六年(1578)に伊予国金川の戦いで討ち死にしたとも、金川に近い妻鳥村で自害した
          ともいわれる。
           他方で、大西備中守には頼武の弟で同じく金川の轟城主大西元武がおり、東山城主として
          元武の名を挙げる資料もある。


       <手記>
           東山城は比高約300mの山上にあり、東に延びる稜線に沿って登山道が整備されています。
          上の図にあるとおり麓から100mほどのところに林道が通っているので、そこまでショートカット
          できないかと思ったのですが、この林道はストリートビューで見る限りでもかなり荒れていて、
          実際に訪れた感触では、途中どこで倒木や落石に阻まれてもおかしくはない感じでした。東麓
          から登る道も、途中に団地があるものの車を止められそうなスペースが見当たらず、川沿いに
          結局駐車して、団地裏からショートカット一切なしの登山と相成りました。
           道はちゃんとあるので危険はなく、時間さえかければいずれは到着するのですが、ロンリー
          な山登りに精神的なダメージもたまります。しかし、かなり高所の城なので遺構も乏しかろうと
          思っていたのですが、良い意味で予想が外れたため、苦労が報われる結果になったのは幸い
          でした。
           先端近くの腰曲輪に建てられた物見台に辿り着く前に、中世城郭跡に慣れた人なら、斜面を
          見上げて竪堀の存在に気付けるでしょう。この時点でHP・MPとも10%ほどは回復できます笑
          さらに、近年新しくされたとみられる物見台には説明板や簡単な縄張り概念図もあり、先端側を
          見下ろせば堀切跡も視認できます。物見台からの眺望は良いとはいえなくなってしまっている
          ものの、これでHP・MPの半分はリカバリーできるでしょう。
           そして、主郭に向かうと立派な横堀や竪堀が現れ、ここまでくればもう全回復です。横堀の
          主辺には、逆茂木や虎落(もがり)といった木製の防御設備がモデルとして陳列されていて、
          先の物見台といい、こんな高所をよくこれだけ整備されたものだと敬服しました。
           主郭は建物を建てるにも十分な広さがあり、後端は櫓台状となっていて祠が祀られています。
          前方部にも塚状地形があり、その上に城址標柱が建っていますが、こちらは遺構かどうかは
          分かりません。
           主郭東辺の横堀を北上すると、鬼門除けのように隅欠けに折れた空堀が現れます。こんな
          高所の山城に折れと深さのあるこれだけ良好な遺構が見られるとは、もはやゲージも満タンと
          なること間違いなしです。そして、主郭の背後には堀切が2条あり、その先は自然地形となって
          いました。
           全体として、堀の規模や技巧から戦国時代後期の遺構であることは疑いないでしょう。一方、
          『大系』で示唆されているとおり、もともと南北朝時代に築かれた城であるという点も首肯でき
          ます。やはり、周辺諸城に対して異質なほどの高さが特徴であり、高所に城砦を設ける傾向の
          強い南北朝期の築城とみるのは自然でしょう。

           
 田ノ岡城跡から東山城跡を見上げる。
先端部斜面の竪堀。 
 同上。
物見台の建つ腰曲輪。 
 物見台から先端下の堀切と腰曲輪を見下ろす。
主郭前方下の横堀。 
 同上。
横堀から続く竪堀。 
 主郭東辺の横堀と土塁。
主郭前方部のようす。 
 主郭前方部に建つ城址標柱。
主郭後端の櫓台状土塁とその上の小祠。 
 櫓台状土塁から主郭を俯瞰。
主郭北東下の隅欠けに折れる空堀。 
 同上。
主郭背後の堀切。 
 同2条目。


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