山野上城(やまのうえ)
 別称  : 仏殿城
 分類  : 平城
 築城者: 細川和氏か
 遺構  : 堀跡
 交通  : JR徳島線学駅から車で10分


       <沿革>
           『故城記』には承久三年(1221)の承久の乱で配流となった「中将信成」の屋形とする
          記述がある。中将信成とは後鳥羽院に仕えた左近衛中将・水無瀬信成のこととも考え
          られるが、信成は乱後に出家しており、阿波へ流されたという記録はない。
           『阿波郡風土記』には「細川氏の館跡なるべし」とあり、一般には建武三/延元元年
          (1336)に足利尊氏の命を受けて阿波に入国した細川和氏が、支城として築いたものと
          考えられている。
           永禄年間(1558〜70)には、郡城主原田甲斐守の子・備後守秀兼が城主となったと
          される。他方で、秀兼は同元年(1558)に板野郡住吉村小島で戦死したともいわれる。
          また、秀兼の子・久右衛門は天正十年(1582)の中富川の戦いで討ち死にしたとされ、
          やはり同戦いで敗死した原田城主原田久左衛門と同一とも考えられるが確証はなく、
          原田氏の来歴には不明な点が多い。


       <手記>
           山野上城は吉野川の浅い河岸段丘の上に築かれた崖端城です。上に図示した点に
          城址碑があり、段丘の東側は無名谷と呼ばれる沢谷となっています。石碑上の畑地を
          遡ると、『日本城郭大系』の概略図に見える「旧水堀」と思しき東西方向の溝地形があり
          ます。それに沿う「旧築地」については失われたようで、この堀跡が現状ではほぼ唯一
          の遺構といえるでしょう。
           堀跡か南が主郭跡とみられ、鶯谷の小沢に削られた台地角の王子神社までが城域と
          考えられます。『大系』に記載されている井戸や旧松尾神社前の池泉、仏殿城の別称の
          由来とされる仏殿庵なども、それらしきものは見受けられませんでした。

           
 山野上城跡の段丘と石碑。
城址碑。 
 主郭跡のようす。
旧水堀とみられる溝状地形。 
 主郭東側の無名谷。
王子神社。城域南西隅か。 
 王子神社から麓を俯瞰。


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