郡城(こおり)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 柿原氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR徳島線鴨島駅から車で10分


       <沿革>
           『阿波志』には「柿原某此に拠る」とあり、『日本城郭大系』では貞治元/正平十七年
          (1362)の白峰の戦いで細川頼之に属し、細川清氏軍に討たれた柿原孫四郎の子孫と
          している。現地の石碑では原田孫四郎が築き、その子・原田大和守信久が居城とした
          とある。
           一方、原田氏は奥州原田荘の出身と言い伝えられるが、奥州に原田荘という荘園は
          見受けられない。また、信久の孫・秀兼は山野上城主となったともいわれるほか、北に
          別個の原田城主原田氏が存在するなど、同氏の来歴は不明な点が多い。
           現地の石碑では秀兼を信久の子とし、秀兼の兄・信秀の子・備前守信国が城主の時、
          長宗我部氏に攻め落とされ帰農したとある。


       <手記>
           吉野川とその支流の九頭宇谷川、および指谷川の3川の合流点付近が郡城跡とされ
          ています。河川改修により遺構は消滅しているようで、城址碑や標柱が建つのみです。
          同じ吉野川堤防沿いのすぐ西側には伊月城跡、東方には高畠城跡柿原城跡と続き
          ますが、いずれも遺構は残っていません。
           郡城が原田氏の居城であったことは間違いないでしょうが、とかくその出自や動静は
          疑問点だらけです。奥州原田氏といえば原田甲斐などを輩出した伊達家重臣の家系が
          有名ですが、原田荘が存在しない以上、関連はなさそうです。個人的には、柿原氏の
          庶流とする方がしっくりします。実際、土成町には川原田や原田市といった字が残って
          いるようです。

           
 郡城跡標柱。
同じく城址碑。 


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