バウツェン
( Bautzen )
 別称  : ブディシン、オルテンブルク城
 分類  : 都城
 築城者: 不明
 交通  : バウツェン駅徒歩15分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           ザクセン一帯には、もともとスラブ系少数民族であるゾルブ人が住んでいた。バウツェンは、
          このゾルブ人によって9世紀ないし10世紀ごろに建設されたと推測されている。ゾルブ語では
          「ブディシン(Budysin)」というが、語源については諸説あって定かでない。
           10世紀後半からフランク人がザクセンに進出するようになり、1002年には神聖ローマ帝国
          の文書に「ブドゥシン(Budusin)」の統治権に関する記述がみられる。これが、バウツェンの
          史料上の初出とされ、このころメルセブルク初代司教ディートマールによってオルテンブルク
          の丘に居館が築かれていたとみられている。
           1018年、ポーランド王(兼ボヘミア公)ボレスワフ1世は、ザクセンの神聖ローマ帝国領へ
          侵攻した。同年、バウツェンの和約(Frieden von Bautzen)が結ばれ、ポーランド領となった。
          バウツェン伯でもあったマイセン辺境伯ヘルマン1世は、妻がボレスワフ1世の娘であったため、
          ボレスワフ1世と神聖ローマ皇帝コンラート2世の間の調停に奔走した。その結果、1031年に
          バウツェンを含む旧マイセン辺境伯領はヘルマン1世に返還された。
           1073年、ザクセンの貴族たちが反乱をおこしザクセン戦争が勃発すると、ボヘミア公ブラチ
          スラフ2世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を支持して戦った。戦後、ブラチスラフ2世は功績に
          よってバウツェンなどラウジッツ地方を与えられた。以降、長らくバウツェンはボヘミア王国の
          重要都市として機能した(途中、マイセン辺境伯領やブランデンブルク辺境伯領であった期間
          もあるが)。12世紀前半までには、都市権も獲得したとされる。
           1346年、バウツェンは周辺6都市を誘ってオーバーラウジッツ六都市同盟(Oberlausitzer
          Sechsstädtebund)を結成した。1419年にフス戦争が勃発すると、1429年と31年の2度に
          わたり、バウツェンはフス派によって包囲されたが、陥落することはなかった。この包囲戦は、
          大天使ミカエルの加護により勝利することができたと市民の間で信じられ、戦後聖ミカエル
          教会が建造された。
           1479年、ボヘミアへ侵攻したハンガリー王マーチャーシュ1世とボヘミア王ブラヂスラフ2世
          との間でオルミュッツの和約が結ばれ、ラウジッツ地方はハンガリー領とされた。1490年に
          マーチャーシュ1世が急死すると、ラウジッツ地方はボヘミアへ返還された。
           三十年戦争が始まると、カトリック側にとどまったバウツェンはプロテスタント側のザクセン
          選帝侯ヨハン・ゲオルク1世と対立した。皇帝フェルディナント2世からラウジッツの領有を認め
          られたヨハン・ゲオルク1世は、1620年9月にバウツェンを包囲した。このときの激しい攻防戦
          のようすは、後に銅版画家マテウス・メーリアンによって描かれている。その後も、ザクセン軍
          やスウェーデン軍によって、バウツェンは幾度となく包囲・占領された。1634年には、当時町
          を占領していた帝国軍が撤退する際に町に火を放ち、多くの市民が犠牲となったとされる。
          翌年には、ザクセンによるバウツェン領有が確定した。
           1813年には、バウツェン郊外でナポレオン軍とプロイセン・ロシア連合軍の大規模な合戦が
          行われた(バウツェンの戦い)。第二次世界大戦末期の1945年4月26日には、ドイツ軍最後
          の攻勢といわれるバウツェン攻防戦が行われた。

       <手記>
           バウツェンは、ドレスデンの西に位置し、ポーランドやチェコとの国境にも近い要衝の小都市
          です。旧市街は、シュプレー川が三方を囲うように流れる舌状の台地上にあります。この川を
          下ると、ドイツの首都ベルリンに至ります。
           現在は観光地となっているバウツェンの最大の特徴といえば、ドイツの少数民族ゾルブ人が
          多く住む町という点です。ゾルブ人はスラブ系民族のなかでもかなり根元の方に位置している
          そうで、かつてはザクセン州一帯に広く生活していたそうです。今では、バウツェンとその北に
          あるコットブスという2つの町がゾルブ人の多く住む町として認知されているのみです。市内の
          標識にはドイツ語とゾルブ語が併記されています。
           旧市街には、中近世の建物が数多く残されており、とくに都城の城壁や門・塔などは良好に
          残っています。台地のさらに先端にオルテンブルク城があり、ここが狭義のバウツェンの城と
          なります。現在、オルテンブルク城には近世の宮殿が建っており、カフェレストランやゾルブの
          博物館などになっています。また、ゾルブ文化…というわけではないとは思いますが、旧市街
          には「ヴァッサークンスト(Wasserkunst)」と呼ばれる塔が数多く立ち並んでいます。辞書通り
          に従うなら噴水装置ということになるのですが、どうもそんな風には見えません。水に関連する
          ものなら、給水ないし貯水塔ではないかと思われるのですが、いまひとつ判然としません。
           このように、丘の上の中近世の小都市といった感じののどかなバウツェンですが、この町を
          訪れたなら忘れてはならないのがゾルブ料理でしょう。ゾルブ料理の特徴は、からしを好んで
          使うことです。街中にもあちらこちらにからしの販売店が見受けられますが、料理もスープから
          メインディッシュのソースまで、からしの香りのしないものはありません。とはいっても、日本の
          からしと違って辛味付けではなく香辛料として用いられているので、辛くてたまらんという料理
          ではありません。
 
  
 オルテンブルク城の宮殿。
旧市街を望む。 
中央左側にヴァッサークンストが3本建っています。 
 粉引小屋門(Muehltor)。旧市街への入口の1つ。
ヴァッサークンストの1つ。 
 オルテンブルク城脇の虎口。
ニコライ塔。 
 南端(峰の付け根側)の城壁跡。


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