ドレスデン要塞
( Festung Dresden )
 別称  : なし
 分類  : 都城
 築城者: 不明
 交通  : ドレスデン中央駅徒歩20分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           もともと、ドレスデンなど現在のザクセン州一帯にはスラブ系民族であるゾルブ人が住んでいた。
          ドレスデンの名も、ゾルブ語の都市名「Drjezdzany」に由来している。10世紀にドイツ王ハインリヒ
          1世がザクセンへ進出すると、ドレスデン近くのマイセンに辺境伯を置いた。
           フランク人の入植が本格化したのは12世紀後半ごろと推測されている。1180〜1200の間に、
          ドイツ王の命により初めて城壁と堀が築かれたとされる。1206年に、「ドレスデネ(Dresdene)」と
          いう名で初めて史料に登場している。
           1485年、ザクセン選帝侯領を共同統治していたエルンストとアルブレヒトの兄弟は、所領を分割
          し(ライプツィヒの分割)、ドレスデンやマイセン周辺は弟のアルブレヒト(勇敢公)が統治することと
          なった。アルブレヒトの子ゲオルク(髭公)は、1519〜29年にかけてドレスデンを都市要塞化した。
          1545年〜55年にかけて、ゲオルクの甥モーリッツは、当時最先端であったイタリアの技術を取り
          入れて要塞の稜堡と堀と改修した。これは、翌年にはじまるシュマルカルデン戦争に備えたもの
          とも推測される。この戦争で、モーリッツはプロテスタントでありながら所属していたプロテスタント
          同盟であるシュマルカルデン同盟を裏切り、カトリック側の皇帝カール5世に与した。モーリッツは
          見返りとしてエルンストの家系が継承していたザクセン選帝侯位を得たが、同時に「マイセンの
          ユダ」と呼ばれるようになった(したがって、モーリッツの居城自体はマイセンに置かれていたもの
          と推測される)。
           モーリッツの弟アウグストが選帝侯を継ぐと、ドレスデンには統一された貨幣鋳造所や造兵局、
          学校、教会などが整備された。彼の時代にドレスデンがザクセン公国の首都となったものと推測
          される。1569年には、市の北西エルベ川沿いに稜堡が増築された。ゲオルクの子クリスティアン
          1世の代の1589年には、北東のエルベ川沿いにも稜堡と地下兵営の建設が開始された。
           18世紀初頭の選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は、古ドレスデン( Altendresden )と呼ばれて
          いたエルベ川対岸地区をドレスデン市に組み入れて要塞化した。彼の代に、ドレスデンはひとつ
          の最盛期を迎えたといわれる。フリードリヒ・アウグスト1世は蹄鉄をへし折るほどの腕力と、子供
          の数は約360人ともいわれる精力によって「強王」と渾名された。ちなみに、マイセン白磁の製法
          を発見したヨハン・フリードリヒ・ベトガーを抱え入れたのもアウグスト強王である。
           1744年の第二次シュレージエン戦争で、ボヘミア侵攻を目指すプロイセン軍のうち、フリードリヒ
          大王率いる本隊がザクセン領を経由した。アウグスト強王の子フリードリヒ・アウグスト2世は大王
          の奇襲的進軍の前に領内通過を認めざるを得ず、大王軍はドレスデンの眼前のピルナでエルベ
          川を渡河した。しかし、ザクセンはすぐさまオーストリアへ援軍を派遣し、ボヘミアで兵站の確保に
          苦しんでいたプロイセン軍は、多大な犠牲を払って撤退した。
           翌年、態勢を立て直したプロイセン軍はシュレージエンに侵攻したオーストリア軍を破って反撃
          に転じた。同年12月には別動隊がザクセンにも侵攻し、ドレスデン近郊のケッセルスドルフの戦い
          でザクセン軍はプロイセン軍に敗れた。まもなくドレスデンはプロイセン軍に占領され、フリードリヒ
          大王もドレスデン入りした。同月25日にドレスデン条約が結ばれ、第二次シュレージエン戦争は
          終結した。
           1756年、プロイセンへの復讐戦の環境を整えつつあるオーストリアに対し、フリードリヒ大王が
          予防戦争を仕掛けて七年戦争が勃発すると、ザクセンは最初の標的とされた。大王の電撃的な
          侵攻に対して、フリードリヒ・アウグスト2世はドレスデン守備を放棄し、ケーニヒシュタイン要塞
          退いた。ザクセン軍は、今日ザクセンのスイスと呼ばれるエルベ川の渓谷地帯にある、ドレスデン
          南東のピルナからケーニヒシュタインへと至るラインに陣城網を敷き、籠城戦のかまえをみせた。
          プロイセン軍はザクセン軍を包囲・兵糧攻めにする作戦を採り、オーストリア軍の救援も失敗した
          ため、1ヵ月ののちにザクセン軍は降伏した(ピルナ包囲戦)。
           1806年、神聖ローマ帝国の解体によりザクセン王国が成立すると、ドレスデンは改めて王国の
          首都となった。1866年の普墺戦争に際し、ザクセンは中立を保とうとしてプロイセンの最後通牒を
          拒絶したため、通牒から3日後にドレスデンを占領された。同戦争の終結により、ドレスデンの要塞
          としての歴史は幕を閉じた。

       <手記>
           芸術の都あるいは百塔の都などと謳われたドレスデンも、他の都市と同様古くから堀と城壁に
          囲まれた都城であり、「ドレスデン要塞」と称する別個の要塞があったわけではありません。ただ、
          わざわざ表題を「ドレスデン要塞」としたのは、北東隅の稜堡と地下兵営が発掘・保存され「要塞
          (Festung Dresden)」として公開されているからです。ドレスデンほどの規模の大都市において、
          稜堡と堀の跡が公園化されて残っている例は多くありますが、地下兵営(カゼマッテ)部分まで
          保存されているのはかなり珍しく、貴重な施設といえます。
           入口が階段を下りた地下1階にあるため非常に見つけづらいのですが、アルベルティーヌムと
          いう美術館の西側、エルベ川沿いのブリュールのテラスの南側にあります。内部はボイスガイド
          で回ります。公開されているのは戦闘部分より兵営部分の方が多いため、内容も平時にいかに
          守備兵が暮らしていたか、城内への出入りがいかに監視されていたかといったところに重点が
          置かれており、たいへん興味深いものでした。
           ドレスデンといえば、第二次世界大戦の空襲によりほとんどの歴史的建造物が焼失・破壊され、
          ドイツ再統一後に復元が進められている都市として知られています。現在もあちこちで工事の音
          が鳴り響いているなか、戦災を免れた遺構としても貴重なものであると思います。
 
  
 市街から要塞への出入り口跡。
 かつては手前側は堀で橋が架けられていました。
要塞内部のようす。 
 要塞銃眼からエルベ川を望む。
外から見た稜堡。 
上はブリュールのテラスとなっています。 


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