アルブレヒト城 ( Albrechtsburg ) |
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別称 : アルブレヒツブルク城、マイセン城、ミスニ城 | |
分類 : 山城 ( Höhenburg ) | |
築城者: ハインリヒ1世 | |
交通 : マインツ駅徒歩20分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 929年、ドイツ王ハインリヒ1世によって築かれたとされる。それ以前にはスラブ系先住民族である ゾルブ人の砦があったと伝えられるが、詳細は不明である。もともと、現在のザクセンにはゾルブ人 が多く住んでおり、城はハインリヒ1世によるザクセン進出の橋頭堡として築かれたものであった。 城は、北麓を流れるマイサ川にちなんで「ミスニ(Misni)」城と呼ばれるようになった。 10世紀後半にはマイセン辺境伯が設置され、同時期にマイセン司教座も同じ城内に置かれた。 984年には、ボヘミア公ボレスラフ2世が城を奪取した。しかし、数年後には神聖ローマ皇帝オットー 3世によりボレスラフ2世の甥エッケハルト1世が辺境伯に任命された。1002年、エッケハルト1世の 弟グンツェリンが辺境伯を継いだが、これを不服とするエッケハルト1世の(したがってグンツェリン も)異父兄弟であるポーランド王ボレスワフ1世が城を攻め落とした。ボレスワフは、翌年ボヘミアを 武力で平定し、ボヘミア公位に就いた。 1009年、グンツェリンは私闘を理由に辺境伯を解任され、エッケハルト1世の子ヘルマン1世が跡 を継いだ。時期は不明だがアルブレヒト城もマイセン辺境伯の手に戻り、1015年にはボレスワフ1世 の子ミェシュコ2世が城に攻め寄せている。 1068年、辺境伯に加えてマイセン城伯位が設置され、マイセンの重要性はさらに高まった。1076 年には、皇帝ハインリヒ4世がザクセン戦争における支持の見返りとして、ボヘミア王ヴラチスラフ 2世にマイセン辺境伯位を与えている。これに反発した当時の辺境伯エクベルト2世はハインリヒ4世 と対立し、1089年に敗れて殺害された。同年、オストマルク辺境伯ハインリヒ1世がマイセン辺境伯 に任じられた。ハインリヒ1世以降、マイセン辺境伯は約350年弱にわたってヴェッティン家の世襲と なった。 1423年、辺境伯フリードリヒ1世(好戦公)は、フス戦争で皇帝ジギスムントを支援した功績により ザクセン選帝侯に任じられた。これにより、マイセン辺境伯領は選帝侯領に併呑され、辺境伯位も 消滅した。フリードリヒは城内にマイセン大聖堂を建設し、1428年に亡くなると遺体は同大聖堂に 安置された。 1470年から、建築家アルノルト・フォン・ヴェストファーレンの指揮のもとで城の宮殿の建設が開始 された。普請が完了したのは1485年のこととされる。同年、ザクセン選帝侯領を共同統治していた フリードリヒの孫のエルンストとアルブレヒトの兄弟は領土の分割を行い、マイセンは弟のアルブレ ヒトが継承した。アルブレヒトはザクセン公国を立ち上げ、アルブレヒト3世(勇敢公)を称した。現在 の城名「アルブレヒト城」は、アルブレヒト3世にちなんで1676年につけられたものである。16世紀 中ごろには、都がドレスデンに遷された。 その後も城は増改築を繰り返したが、17世紀前半の三十年戦争で、スウェーデン軍により大きな ダメージを受けた。 1705年、ザクセン選帝侯アウグスト2世(強王)は、在野の錬金術師ヨハン・フリードリヒ・ベトガー と科学者エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスを召し抱えてマイセンに幽閉し、磁器の 製法の完成を強いた。1707年に両者は製法を確立したが、アウグスト2世は2人を解放することは せず、アルブレヒト城内に磁器工房を建設させた。1710年に工場は稼働を開始したが、1708年に チルンハウスは城内で病没していた。ベトガーも同じく1719年に死去した。1732年には、焼成用の 薪を搬入するためのケーブルカー式のトロッコ線がエルベ河岸から直接城内へと繋げられた。 1773年、火災により建物の一部が被災した。その後も、磁器制作は城内で続けられていたが、 環境の悪化により1853年には工房が城下の谷間に移された。これによりアルブレヒト城は無主の 城となったが、1881年に城内の建物をモダンに改装したうえで一般に公開された。 <手記> マイセン城が有名なのは、マイセン焼の秘密を保持するために城内にベトガーとチルンハウスの 2人が幽閉されていたという逸話によるものですね。この逸話が語るところは、マイセンが秘密保持 に適した土地であるということです。マイセン城はエルベ川とマイサ川、トリービッシュ川という3つの 川と谷に囲まれた舌状台地の上にあり、マイセンの旧市街も山と川に囲まれた谷間の町といった 感じです。材料の輸入や製品の輸出のためにエルベ川の水運が必要であったという以外は、地理 上の重要性は高いとはいえません。この点は、佐賀藩がやはり磁器の製法を漏らさないように三方 を山に囲まれた有田周辺で焼成を行い、伊万里から輸出していたのとよく似ています。 マイセンの歴史には2つのピークがあるといえます。1つは現在まで続くマイセン焼の生産地として ですが、もう1つはマイセン辺境伯領の時代、ザクセン経略の中心地の1つとしての繁栄です。後者 の方はマイセン焼のブランドに隠れてほとんど知られていないようですが、城の歴史としてはこちらの 方が輝かしい時代であったように思われます。ただし、その時代の栄華を伝える建物は、城内には おそらく黒ずんだ重厚な壁面を見せる大聖堂のみであると思われます。そもそも、通常は町の中心 に聳えているべき大聖堂が、町のはずれの城の中に建っているというのは珍しく、私の知る限り他 にプラハしかありません。マイセンの隠れた名所といえると思います。 宮殿内部は博物館となっています。内部は、ドイツ統一後西側に追い着け追い越せでかなり性急 に近代化させたようで、旧西独地域でも滅多にないほど、古い遺構とメカニックがミスマッチに混在 しています。見学したあとには、「なんだかなー」という感想が残りました。やはり、アルブレヒト城の 一番のみどころは、表題の写真のとおり対岸からの風景写真なのかな、と感じました。 |
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城内の大聖堂。 | |
宮殿入口付近のようす。 | |
城山からの眺望。 | |
一の門(城内側の門)。 | |
尾根を断ち切る堀切と城内へ通じる石橋。 | |
二の門(城外側の門)。 | |
市壁の一部。 |