敏満寺城(びんまんじ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 敏満寺門徒か | |
遺構 : 櫓台、土塁、石塁、堀、虎口 | |
交通 : 近江鉄道多賀線多賀大社前駅徒歩15分 | |
<沿革> 『胡宮神社史』や『新谷氏伝譜系図』によれば、永禄五年(1562)に浅井長政が敏満寺を攻撃し、 堂宇はことごとく焼け落ちたとされる。当時の敏満寺公文職および胡宮神社神官職であった新谷 伊豆守勝経は、縁戚関係にあった久徳城主久徳氏や高宮城主高宮氏らとともに六角義賢に属し、 六角氏と手を切った長政の攻勢に遭ったものと考えられる。このとき、勝経・勝虎以下800人が 「大門前」で浅井勢と戦った末に戦死し、勝経も自害したとされる。戦いの経緯からみて、この時点 では敏満寺に城と呼ぶほどの防御施設は備えられていなかったものと推測されている。敏満寺は 翌六年(1563)に復興された。 元亀三年(1572)には、織田信長による焼き討ちに遭った。『胡宮神社史』によれば、敏満寺が 前年に焼かれた比叡山延暦寺に同心し、信長の求めた寺領2万3千石の削減に応じなかったこと が理由とされる。この焼き討ちの後、江戸時代に入るまで敏満寺は廃寺となった。したがって遅く とも、信長による焼き討ち前には、敏満寺に城砦が築かれていたことになる。 サンライズ出版『近江の城』では、発掘された敏満寺城址の虎口遺構が、近江では元亀以降に 築かれたとされる城館からしか見つかっていないことから、元亀元〜三年(1570〜72)の築城と 推定されている。 ちなみに、寺や遺跡の「敏満寺」は「びんまんじ」と読むが、地名は「びんまじ」と読む。 <手記> 敏満寺城址は、東名高速道路上り線多賀SAの北端付近にあります。敏満寺跡自体は、道路の 建設により消滅したようです。城跡は、ギリギリ造成計画の外側にあって難を逃れたようで、建設 に先立つ発掘調査の結果、興味深い遺構が多く検出されています。 敏満寺城は、南東の清龍山から延びる緩やかな裾野が、舌状となった先端に位置しています。 現在目にできるのは、先端の主郭と思われる部分のみですが、その手前にも最低もう1曲輪あった ようです。主郭は土塁で囲まれ、先端部と虎口脇の2ヶ所は櫓台状になっています。 この虎口は、第二郭との間の空堀から鉤字に折れて入るようになっており、寺院では使用される ことのない技術が用いられています。このことから、敏満寺城は寺社が自衛のために城砦化したと いうよりは、寺に付随してきちんとした城を設けたと考えるのが妥当かと推測されます。 築城時期については、元亀元年以降かは判じかねますが、少なくとも永禄五年時点では城砦と しては存在していなかったものと考えています。ただし、それは虎口遺構云々という発掘上の理由 ではなく、永禄五年の焼き討ちの記述からは、敏満寺が城砦化されていたことをうかがわせる表現 がみられないという史料上の理由です。 したがって、早ければ永禄六年の再建時点で、前回の反省から砦も築かれたとも考えることもでき ると思われます。ただ、現在の遺構は、長政が信長と敵対した際に、浅井氏の指導のもとで築かれ たものであると推測するのが妥当でしょう。 このように敏満寺城は、高速道路のSAで休憩がてらに見学できるという利点のほかに、城郭史 の上でもたいへん興味深い城跡であるといえます。 |
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敏満寺跡碑。 | |
虎口脇の土塁。櫓台か。 | |
元亀築城説の根拠となっている折れのついた虎口。 | |
主郭の土塁。 |