福岡城(ふくおか)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 赤松氏か
 遺構  : 丘
 交通  : JR赤穂線長船駅徒歩25分


       <沿革>
           南北朝時代初期に赤松氏が築いたとみられ、観応元/正平五年(1340)には足利尊氏が在城した
          とされる。
           文明十五年(1483)、金川城主松田元成が赤松氏から離反し、山名氏に通じて福岡城を攻撃した。
          福岡城には赤松家臣浦上則国らが詰めていたが、別動して山名氏の領国へ攻め入った備前守護の
          赤松政則が敗れると、城内は孤立化を恐れて混乱に陥った。元成は50日の籠城戦の末に福岡城を
          攻め落としたが(福岡合戦)、則国の父ないし兄の村上則宗に敗れて自害した。
           その後の福岡城については詳らかでないが、大永年間(1521〜28)の洪水によって吉井川が流路
          を変え、城と福岡の街の大部分が水中に没したとされる。


       <手記>
           備前福岡は吉井川河港の街として古くから発展していましたが、上述のとおり今日では吉井川の下
          となっていて往時の繁栄を偲ぶものはわずかです。福岡城の正確な位置や規模・構造なども定かで
          ありませんが、長船カントリークラブのコース内にぽこねんとある小さな丘が本丸跡といわれています。
          上の地図には描かれていませんが、備前大橋とゴルフ場の間にサッカー場があり、県道からその脇を
          河川敷に下りて駐車できます。そこから丘までは歩けるようになっているので、ゴルフボールが当たら
          ないように気を付ければ大丈夫です。
           丘には石碑があり、頂部が神社になっているものの、城跡らしいものは見当たりません。本丸だった
          としても、こんな小さな丘に籠っても意味がないので、おそらくは物見台だったのでしょう。また城址碑
          とは別に、江戸時代末期の渋染一揆結集の地碑が建っています。
           ちなみに、備前福岡は福岡藩主黒田家ゆかりの地とされています。いわく、黒田官兵衛孝高の祖父
          である黒田重隆が福岡の出身で、前出の洪水で街が壊滅したために播磨国へ移り目薬を商って財を
          成しました。孝高の子長政が筑前一国を与えられた際、備前福岡にちなんで新たな居城に福岡城
          名付けたのが、今日の福岡県福岡市のはじまりということです。九州一の大都市として発展した福岡・
          博多と比べると、こちらの福岡には諸行無常すら感じられます。

           
 本丸跡とされる丘。
丘の麓の城址碑。 
 丘の頂部の神社を見上げる。
丘の麓の「渋染一揆結集の地」碑。 
 比定地周辺現況(左手の丘が伝本丸跡)。


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