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洲浜城(すはま) |
別称 : 瀬尾城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 妹尾兼康か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR瀬戸大橋線妹尾駅徒歩15分 | |
<沿革> 平家に仕えた武士・妹尾(瀬尾)太郎兼康が、永治元年(1141)に妹尾郷を受領して 築いたと伝えられる。他方で、兼康を瀬尾兼門の妹・保子の子とする説がある。この説 よると瀬尾氏は卜部氏の後裔で、瀬尾康遠が備前・備中・備後の領主となって瀬尾城 に入ったが、故あって朝敵とされて滅んだ。保子は鳥羽上皇の官女として仕え、上皇の 子を身ごもっていたため赦され、兼康が生まれると平清盛の父・忠盛に預けられたが、 瀬尾姓を憚り妹尾を称した。この場合、洲浜城(瀬尾城)は康遠によって築かれたこと になるが、康遠の実在は確認できない。 寿永二年(1183)、兼康は倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲に敗れ、木曾方の将・倉光 成澄に捕えられた。 義仲は兼康の身柄を成澄の弟・成氏に預け、備前の案内役として 西国へ平家追討の軍を進めた。しかし、同年十月一日の水島合戦で平家軍に敗れる と、兼康は自領の妹尾荘に成氏を誘って殺害し、源氏に反旗を翻した。二千人余もの 兵を集めた兼康は、福隆寺縄手の笹の迫(現在の岡山市北区津島笹が瀬)に拠って 成澄をも討ち取るなど激しく抵抗したが、ついに敗れて嫡子・宗康と共に板倉宿付近 (同北区吉備津)で討ち死にした(福隆寺縄手の戦い)。義仲は兼康の武勇を大いに 惜しみ賞賛したとされる。 その後の洲浜城および妹尾氏については定かでない。 <手記> 洲浜城、というより妹尾氏の城館の位置については今も明らかになっていません。 上の図に示した妹尾市街北側の丘陵頂部に、「妹尾を語る会」の設置した説明板が あるのですが、私が訪れたときには倒れてしまっていました。それによると、地元では 周辺を稲荷山と呼ぶとのことですが、城館跡に直接つながる由来はないようです。 仮にここだとしても、平安時代なので開発領主の居館程度のものだったのでしょう。 ちなみに、南麓には江戸時代の戸川家陣屋があります。 |
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洲浜城跡説明板。 | |
説明板周辺現況。 | |
説明板付近からの眺望。 |