母成峠防塁(ぼなりとうげ) | |
別称 : 母成峠陣 | |
分類 : 防塁 | |
築城者: 上杉景勝 | |
遺構 : 土塁、堀 | |
交通 : 東北横断自動車道磐梯熱海IC から車で15分 |
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<沿革> 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際して、上杉景勝によって築かれたのがはじまりとされる。 しかし、このときは会津が戦場となることはなかった。 慶応四年(1868)の戊辰戦争において、会津藩による国境防備の1つとして上杉氏の旧塁が 取り立てられ、さらに南方に塹壕や砲台が付け足された。七月二十九日に二本松城が落ちる と、新政府軍は会津攻略を決定し、いくつか想定される侵攻ルートから母成峠が選択された。 この動きを察知した旧幕府軍伝習隊の歩兵奉行・大鳥圭介は、隊士400名や会津藩兵200名 のほか、仙台藩兵や二本松藩の敗残兵を糾合して峠に布陣したものの、新政府軍の総勢7千 に対して、総勢800程度という明かな劣勢であった。 八月二十一日、濃霧の中を進軍してきた新政府軍は、街道沿いの台場群を攻め落としつつ、 着実に母成峠へ迫っていった。峠塁へ退いた旧幕府軍は5門の大砲で応戦したが、中軍山から 20門余の砲撃を受け、さらに間道からの攻撃で浮足立ち、その日の夕刻にはまず会津藩兵が 逃走し、残った旧幕府軍も潰走した。新政府軍が領内なだれ込むと、会津藩は九月二十二日に 降伏し、峠塁もそのまま顧みられることはなかったものとみられる。 <手記> 母成峠は安達太良山の南西裾、郡山市と猪苗代町の境に位置しています。古戦場の石碑や 説明板、駐車場などはなべて猪苗代町側にありますが、防塁の遺構はすべて郡山市側に存在 するため、ここでは郡山市に含めました。 駐車場の説明板に従えば迷うことはありませんが、母成峠防塁は旧道を挟み込むように90度 にカーブしている上杉家時代の部分と、その南側・新道向かいに伸びる直線の追加部分とから 成っています。どちらも二重土塁とその間の空堀、言い換えれば守備兵が身を隠すための土塁 と、その前の射線に敵兵を立たせる横堀で構成されていますが、追加部分の規模が明らかに 劣っているのが特徴です。時間と人員どちらの不足によるものかは分かりませんが、戊辰戦争 での緊迫感が伝わってくるようです。 旧塁部分の北端と追加部分の南端、すなわち防塁全体の両端に「砲台」が設けられています が、こちらも旧塁側はきちんと大砲を据えるスペースが土塁に囲まれているのに対し、追加側の 方は砲台というより櫓台ないし物見台といった造りで、あまり実戦的には見えません。旧塁側の 砲台近くには、防塁と交差する形の土塁が1本長く延びていますが、これは遺構ではなく営林署 が構築した火防壁だそうです。 防塁から駐車場を挟んだ反対側下方の旧道沿いには、東軍殉難者慰霊碑と殉難者埋葬地が あります。これについて、このとき同じオフ会の参加者だった女性から興味深い話を聞きました。 いわく、当時の会津藩は相次ぐ幕府の公務をこなすため領内に重税を課しており、会津藩兵に 非協力的な領民も少なくなかったようです。 |
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母成峠古戦場石碑。 | |
説明板。 | |
上杉家が築いた旧塁部分のようす。 | |
同上。 | |
同上。 | |
同上。 | |
旧塁部分の北端付近。 | |
北端付近の砲台跡。 | |
こちらは営林署が設けた火防壁だそうです。 | |
会津藩が増築した防塁。 | |
同上。 | |
増築部分南端の砲台跡。 | |
砲台脇の横堀。 | |
同上。 | |
東軍殉難者埋葬地。 |