ブラチスラヴァ城
(Bratislava Castle)
 別称  : ポジョニ城、プレスブルク城
 分類  : 平山城
 築城者: 不詳
 交通  : ブラチスラヴァ市街より徒歩
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
          ブラチスラヴァ城の建つ丘には、先史時代から人が定住していた。紀元前8〜紀元前
         5世紀の間ごろには、ケルト人がオッピドゥムと呼ばれる形態の城塞都市を営んでいた。
         紀元後1世紀にローマ帝国の境界線としてリーメスが建設されると、オッピドゥムの跡は
         その防衛拠点として組み入れられたと考えられている。
          376年、フン族に追われたゴート族が、ドナウ川を渡ってローマ帝国に庇護を求めた。
         皇帝ウァレンスは領内への移住を認めたが、ゴート族は支援が十分に受けられず飢餓の
         危機にさらされたため、同年中に反乱を起こした(ゴート戦争)。378年のアドリアノープル
         の戦いでウァレンスは敗死し、ブラチスラヴァ一帯は放棄された。
          ブラチスラヴァ周辺が古くから重要だったのは、ドナウ川の渡渉点であり、東西・南北の
         交易路の交点にあったからであった。しかし、ゴート族やフン族の侵入以後、その歴史は
         いったん途絶え、動向不明の時期が続く。
          9世紀初頭にモラヴィア王国が成立すると、丘に改めて城が築かれた。16世紀の歴史
         家ヨハネス・アヴェンティヌスによれば築城年は805年とされるが、典拠は不明である。
         史料上は、『ザルツブルク編年記』の907年の項に登場するのが初出とされる。この年、
         モラヴィア王国はプレスブルクの戦いでハンガリーに敗れて滅んだとされる。ハンガリー
         統治下ではポジョニ(Pozsony)と呼ばれた。ちなみにプレスブルクとはブラチスラヴァの
         ドイツ語旧名であるが、戦場がどこであったかは諸説あり定説をみない。
          ハンガリー王国はポジョニの城を石造に改修し、ボヘミアや神聖ローマ帝国に対する
         防衛拠点とした。事実、ポジョニ城は12世紀にかけて数次の攻撃を受けた。1162年には
         東ローマ皇帝マヌエル1世が、ハンガリー国王イシュトヴァーン3世の叔父のラースローを
         擁立してハンガリーに侵攻した。イシュトヴァーン3世は、ラースロ―を支持する貴族層に
         当時の首都エステルゴムを逐われ、一時的にポジョニ城に落ちのびた。13世紀後半の
         1273年にはボヘミア王オタカル2世に、1287年にはオーストリア公アルブレヒト(後の神聖
         ローマ皇帝アルブレヒト1世)によって、ポジョニ城は攻め落とされている。
          15世紀前半にフス戦争が勃発すると、フス派による攻撃に備えるため、ハンガリー王を
         兼ねる神聖ローマ皇帝ジギスムントはポジョニ城(プレスブルク城)の改修を行った。これ
         により、今日に見る矩形の建物の原型が築かれたとされる。
          1526年、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世がオスマン帝国軍に敗れて戦死
         すると、オーストリア大公フェルディナント1世が王位を継いだ。同年にハンガリー王国の
         首都ブダがオスマン帝国軍に占領されると、ポジョニ(プレスブルク)が仮の王都となり、
         1536年に正式に遷都した。以後1830年まで、ハプスブルク家当主のハンガリー王として
         の戴冠はプレスブルクで行われることになった。そのなかには、女帝マリア・テレジアも
         含まれている。
          三十年戦争さなかの1619年、反ハプスブルク家を掲げるトランシルヴァニア公ベトレン・
         ガーボルがプレスブルクを占領した。1621年には、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が
         城を奪還した。
          1635年から再び城の改築工事がはじめられた。それまで四角形の2隅にしかなかった
         塔がさらに残る2隅にも増築され、現在に見る姿がおおよそ出来上がった。1673年には
         レオポルト門が、1712年にはウィーン門が建造された。1740年にマリア・テレジアが王位
         に就くと、城の最後の大改修が行われた。これにより、プレスブルク城は防衛拠点から
         平時の王宮へと完全に造り替えられた。
          1784年にハンガリーの首都が再びブダへ移ると、プレスブルクの重要性は急速に低下
         した。1802年からは、城は兵舎として使用された。しかし、1811年5月28日に城から出火
         し、火は3日にわたって燃え続け、城は廃墟となってしまった。
          城の再建が行われたのは、火災から150年が経過した戦後の1953年のことである。
         工事は1968年に完成した。この年の10月28日には、「プラハの春」を受けて新しく制定
         されたチェコスロバキアの改定憲法がこの城で調印された。


       <手記>
          ドナウ川沿いの丘の上に建つブラチスラヴァ城は、決して巨城ではなく、「ひっくり返した
         テーブル」という愛称がぴったりの楚々とした王宮です。城内へは南東のジグムント門か、
         南西のウィーン門を通って入ることができます。このうち後者は上述の通り1712年に建て
         られたものですが、前者は15世紀建造と伝わる貴重な遺構です。北東にあるニコラス門
         も16世紀の築と古いもので、これを抜けて北辺に回ると、多聞櫓のように巡る城壁沿いに
         散策路が伸びています。ここまではあまり観光客も来ないうえに、宮殿周辺よりも古城の
         雰囲気が濃いのでオススメです。
          早い段階で王国の権威上の城になったために防衛設備はあまり見られず、王宮と北側
         の庭園は完全にシェーンブルンやベルサイユと同じ宮殿の趣です。ドナウ川に面した南辺
         には1か所だけ稜堡があり、城塞らしさを感じられる数少ないポイントの1つとなっています。
          城と旧市街の間には幹線道路が1本縦断していますが、これはかつての堀を利用した
         もので、両者ははっきり分かれていました。道路に面した旧市街の西辺には城壁が残って
         いて、その南端には歴代ハプスブルク家ハンガリー王が戴冠してきた聖マルティン大聖堂
         があります。また、北辺のミハエル門は旧市街に唯一残る城門で、その外側には堀跡も
         見られます。ミハエル門の塔はちょっとした軍事資料館兼展望台となっています。旧市街
         の眺望というよりは、ブラチスラヴァ城の全景を望む絶好のスポットといえます。
          ブラチスラヴァはスロバキアの首都ですが、お隣のオーストリアの首都ウィーンから普通
         の快速列車で1時間で来れてしまいます。ユーロが使えるにもかかわらず物価はウィーン
         に比べて驚くほど安いです。旧市街では差を感じないかもしれませんが、一歩観光エリア
         の外に出ると、千円程度で美味しい料理にビールが2杯くらい味わえます。
          ちなみに、ブラチスラヴァという市名は1919年に制定されたものです。地名としても、19
         世紀まではみられなかったようで、つまり現役の時代にはブラチスラヴァ城と呼ばれたこと
         は一度もなかったということになります。ハンガリー語でポジョニ城、ドイツ語でプレスブルク
         城というのが正式名称だったのでしょう。

 ブラチスラヴァ城の夜景。
ミハエル門の塔から城を望む。 
 ジグムント門。
南辺の稜堡。 
 レオポルト門。
宮殿近望。 
 同じく北東側から。
宮殿北側の中庭。 
 ニコラス門(左)と脇の城壁張り出し部。
北辺の城壁。 
 旧市街西辺の城壁。
同上。右奥に見えるのは聖マルティン大聖堂。 
 ミハエル門。
ミハエル門外側の堀跡に架かる橋。 
 夜のミハエル門。


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