浜野城(はまの)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 原氏ないし足利義明か
 遺構  : 堀跡
 交通  : JR内房線浜野駅徒歩10分


       <沿革>
           宝暦五年(1755)、の『浜野村地先澪絵図』に「城ノ内」の字名が記されている。1990年代
          以降の発掘調査により中世の城郭遺構が検出され、城館の存在が明らかとなったが、史料
          にはみられず詳細は不明である。
           城域の一部を成していたとみられている本行寺は、文明元年(1469)に法華宗の僧日泰が
          開基したとされる。あるとき、中野城主酒井定隆が日泰と共に品川から浜野へ海路向かって
          いたところ嵐に遭った。日泰が経を唱えると海は鎮まり、これを見た定隆は日泰に帰依して、
          自分が一国一城の主となったら領内領民ことごとく法華宗とすると誓った。長享二年(1488)
          に土気城主となると、定隆は宣誓通り領内のほとんどの寺院を法華宗に改めさせたと伝わる
          (上総七里法華)。
           この伝説が正しければ、浜野城が築かれたのは早くても文明元年以降と推測される。築城
          者については小弓城主とされる原氏ないし足利義明と考えられているが、確証はない。


       <手記>
           浜野城は、遺構は見つかっているものの史料にはみられない城です。はまの幼稚園東側の
          住宅街が主郭跡と推定され、その西辺から本行寺南方へと走る暗渠が、堀の跡と考えられて
          います。また、住宅街東辺をカーブする生活道路も、堀の名残とされています。
           本行寺墓地北辺のクランクした道路も堀跡と推測されており、その形状から後北条氏滅亡
          まで城が存続した可能性も示唆されているようです。江戸時代には生実藩の蔵屋敷が置かれ、
          室町時代から一貫して重要な港であったことは間違いないでしょう。

           
 主郭西辺の堀跡の暗渠。
同上。 
 主郭東辺の堀跡とみられる道路と暗渠。
主郭から続く暗渠。 
 同じく本行寺南まで伸びているところ。
本行寺。 
 本行寺墓地北辺のクランクした道路。
 堀跡か。


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