生実城(おゆみ)
 別称  : 北小弓城、北生実城、小弓城、生実陣屋、
      小弓御所、森川藩陣屋
 分類  : 平山城
 築城者: 原胤清か
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : 京成千原線学園前駅徒歩15分


       <沿革>
           天文八年(1539)、千葉氏重臣原胤清によって築かれたとされる。原氏の居城はもともと
          南の小弓城にあったが、永正十四年(1517)ないし十五年(1518)に、上総の真里谷氏に
          擁立された足利義明が原氏を駆逐し、小弓公方を称していた。天文七年(1538)の第一次
          国府台合戦で義明が討ち死にすると、胤清は北条氏綱の支援を受け小弓城を奪還した。
          その翌年に(南)小弓城の北に新城を築くと、生実城と字を改めたと伝わる。
           ただし、近年の発掘調査により、両城の築城時期にはそれほど差がないことが明らかと
          なった。このことから、義明が御所としたのは北小弓城とする説や、南小弓城の方が後に
          築かれたとする説などさまざまな新説が呈されている。また、永正六年(1509)に連歌師の
          柴屋軒宗長が滞在した「小弓館」についても、北小弓城を指すとする説もある。
           胤清の子胤貞は、弘治三年(1557)に娘婿の臼井城主臼井景胤が没した際、その遺児
          久胤が若年だったことから後見役として臼井城に入城した。胤貞は久胤もろとも臼井城を
          支配下に置き、生実城は原氏の有力支城化した。
           永禄五年(1561)、生実城と臼井城は里見氏重臣正木氏(時茂ないし信茂)に攻め落と
          された。同八年(1564)の第二次国府台合戦で里見氏が敗北すると、胤貞は両城を奪回
          したとされる。また、元亀二年(1571)にも再び里見勢に生実城を落とされたが、胤貞の子
          胤栄がまもなく奪い返した。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、胤栄の子胤義は小田原城に籠城しており、
          無主の生実城は無抵抗で豊臣方に占領されたとみられる。役後、原氏は禄を失い、徳川
          家康が関東へ入国すると、その家臣西郷家員が5千石で生実城主となった。ちなみに、
          家員の従姉妹にあたる西郷局は、2代将軍徳川秀忠の生母である。
           家員の子正員は、元和六年(1620)に安房国内1万石へ加増・転封となり、安房東条藩
          を興した。その後、同八年(1622)以降に徳川家光の寵臣酒井重澄が生実に2万5千石を
          与えられたとされる。しかし、重澄の所領実態については不明な点が多く、生実城が使用
          されたのかどうかも定かでない。重澄は寛永十年(1633)に家光の不興を買い、職務怠慢
          を理由に改易された。
           寛永四年(1627)、秀忠の近習であった森川重俊が1万石を与えられ、生実城外郭部に
          陣屋を設けた。一般に、生実藩といえば重俊以降を指す。また、重俊の立藩は酒井重澄
          の改易より前のことであるが、両者の支配域の関係は不明である。
           重俊は寛永九年(1632)に秀忠の後を追って殉死したが、生実藩は森川家12代を数え、
          明治維新を迎えた。


       <手記>
           「おゆみ城」には2つあり、地名上は北の方が生実城、南が小弓城といわれていますが、
          より分かりやすく北小弓城(北生実城)・南小弓城(南生実城)という呼び分けも一般的な
          ようです。たしかに、「生実城」の表記は北小弓城にしか当てはまらないことになりますが、
          もし小弓公方の御所が北小弓城にあったとすると、こちらも小弓城であったことになるため
          なんとも複雑です。
           学園前駅から北の大通りを西進すれば城内に至りますが、より近い方と西口から出ると、
          駅名の由来とみられる学校に阻まれより遠回りをしなければならなくなるので要注意です。
          大通りを進むと北生実上宿という交差点があり、その手前付近が大手口ということですが、
          遺構などはありません。
           そもそも、歴史上の重要性に比べて生実城の遺構は乏しく、生実神社境内の西辺に堀
          と土塁が残るのみです。この堀は、森川藩陣屋の東辺にあたるそうです。陣屋前の大通り
          沿いには、開発の波に呑まれて寂しそうな「森川氏城址」の石碑が建っています。
           本城以下の主城域は、きれいさっぱり新興住宅街となっていて、遺構はおろか旧地形を
          うかがうのも困難です。台地角の緩やかな舌状地形を利用していたようで、先端下や西側
          の森川山重俊院に対して、若干高くなっています。
           生実城については、足利義明が小弓公方を称していたころ既に存在していたことはほぼ
          間違いないとされており、原氏や義明がどのように使っていたかが焦点となっています。
          ここで個人的に重要だと思っているのが、生実城は北を向いており、(南)小弓城は南方を
          意識した選地であるという点です。初期原氏がどちらを主としていたかは正直分かりません
          が、少なくとも義明については目標が古河である以上、生実城を居城とする方が合理的で
          あるように感じます。
           もう1つ気になるのが謎の酒井重澄です。上述の通り、重澄は生実に2万5千石もの所領
          を得ていながらその政庁は不明で、なおかつ改易前に森川重俊が生実藩を興しています。
          あくまで勝手な可能性の推測ですが、重澄は生実城の本城を居城とし、重俊がその外側
          に後から陣屋を設けたとすると、森川家が本城跡を使わなかった理由も説明できるように
          思います。

           
 大手口付近のようす。
生実神社と土塁。 
 生実神社境内の土塁。
生実神社西側の空堀。 
 同上。
生実陣屋跡現況。 
 陣屋跡前の「森川氏城址」碑。
陣屋跡前付近から西方を望む。 
 本城跡付近現況。
先端下から本城方面を望む。 
 本城西方の生実池。


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