茅ヶ崎城(ちがさき)
  別称  : なし
  分類  : 平山城
 築城者 : 不詳
  遺構  : 曲輪、空堀、土塁、虎口、土橋など
  交通  : 横浜市営地下鉄センター南駅徒歩5分



       <沿革>
          史料に現れない城であるため、築城の経緯は分かっていない。発掘調査の結果、14世紀末から15世紀
        前半の築城と考えられている。茅ヶ崎に程近い小机城は、永享十一年(1439)まで続いた永享の乱のころ
        に築かれたと考えられている。このことから、茅ヶ崎城も同時期に鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の対立
        の中で築かれたものと推測されている。築城当初の茅ヶ崎城は、台地の先端に2つの曲輪を設けただけの
        簡素なものだったとされ、東側を走る中原街道の監視や伝えの城程度の機能を超えるものではなかったと
        思われる。
         15世紀後半ごろに、中曲輪を中心に東西北に3つの曲輪を従えた、今日に見る縄張りの骨格が作られた
        ことが、発掘調査の結果推定されている。文明十年(1478)には長尾景春の乱があり、小机城の豊嶋氏が
        景春方として、上杉氏と戦っている。茅ヶ崎城の拡充もこれに前後するものと思われるが、茅ヶ崎城がこの
        とき豊嶋方・上杉方のいずれに属していたのか、改修が豊嶋氏・上杉氏いずれの手によるものかは不明で
        ある。
         後北条氏が相模国に進出して小机衆が形成されると、茅ヶ崎城も小机城を中心とする支城網に組み込ま
        れたものと考えられる。『小田原衆所領役帳』によれば、茅ヶ崎周辺は座間豊後守の所領であったため、
        茅ヶ崎城は座間氏の持ち城であったと推測されている。
         16世紀中ごろには、北条氏の手によって最後の改修が加えられた。この普請は、堀の形成が不完全で
        あることから、未完成で終わった可能性が指摘されている。
         史料がないため廃城時期についても不明であるが、遅くとも天正十八年(1590)の小田原の役の終結と
        ともに廃されたと考えられる。


       <手記>
          十数年前に一度訪れたことがありますが、その時はまだ地下鉄が開通したばかりで、城跡もただの雑木
         林や畑地でした。今回訪れてみると、周辺は港北ニュータウンの中心地としてすっかり開発されて高層マン
         ションやショッピングセンターが立ち並び、まるで浦島太郎状態でした。
          茅ヶ崎城址は、ニュータウン開発に伴う数次の発掘調査を経て、茅ヶ崎城址公園として整備されました。
         史料に登場しない城ではありますが、遺構が良好に残っていることで知られ、城郭史跡保存の1つのお手本
         といって良いくらいの公園に仕上がっていると感じました。茅ヶ崎城は、首都圏から気軽に行ける城跡の中
         では、最も遺構が明瞭に見られるものの1つといえるでしょう。
          一番の見どころは、中郭と東郭でしょう。中郭は、以前は畑であったと記憶していますが、現在は建物礎
         石も地表復元され、高い土塁に囲われた様子が手に取るように分かります。また東郭は、規模は小さいも
         のの、台地の先端且つ最高所にあり、戦時には詰の丸の役割を果たしていたものと考えられています。
          全体の縄張りを見ると、茅ヶ崎城が北からの攻撃を意識していることは明らかです。中郭と東西北の郭か
         らなる基本構造が長尾景春の乱前後に形成されたとすると、上杉氏ではなく長尾氏側によって拡充され、
         対上杉勢の拠点として拡充されたと考える方が、今のところ理にかなっているように思われます。


 茅ヶ崎城址公園入り口。
 既にいくつかの土塁が見えます。
東郭から中郭を望む。 
 両郭間は、左に見える土橋によって繋がっていました。 
 中郭のようす。
 手前に建物礎石が地表復元されています。
  中郭の土塁(手前)と、東郭(奥)の土塁。 
 中郭虎口から北郭を望む。
 北郭と西郭によって形成される虎口。 


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