小机城(こづくえ)
 別称  : 飯田城、根古屋城
 分類  : 平山城
 築城者: 山内上杉氏か
 遺構  : 曲輪、空堀、土塁、櫓台
 交通  : JR横浜線小机駅徒歩15分


       <沿革>
           築城時期については明らかでない。『鎌倉大草紙』に、応永二十三年(1416)の
          上杉禅秀の乱に際して足利持仲・上杉憲秋(禅秀の子。憲顕とも)らが小机周辺に
          集結したとある。この前後に前身となるものが築かれたと思われるが定かでない。
           小机城が初めて文献に現れるのは、文明八年(1476)の長尾景春の乱に際して
          である。景春が鉢形城で挙兵すると、当時の小机城主矢野兵庫助は景春方に
          ついた。同十年(1478)一月、扇谷上杉氏家宰太田道灌に平塚城を落とされた
          豊島泰経が、小机城へ逃げ込んだ。道灌は鶴見川対岸の亀之甲山に陣城を築き、
          小机城を包囲した。多方面に敵を抱えていた道灌は、城攻めに十分な兵力を割く
          ことができなかったようで、戦は長期化した。このとき、道灌は兵の士気を高める
          ために、「小机は まず手習いの はじめにて いろはにほへと ちりぢりとなる」と
          詠じたといわれる。城は2か月近く持ちこたえたものの、四月十二日に落城した。
          このとき、小机城は道灌によって一度廃されたとされる。
           16世紀初頭に北条氏が進出すると、北条氏綱は小机城を再興し、父早雲以来
          の重臣笠原越前守信為を城主に任じた。氏綱は小机城に大規模な改修を加え、
          また周辺の29の土豪をまとめて信為の指揮下に置き、いわゆる「小机衆」を編成
          した。小机城は、小机衆ら多摩川・鶴見川流域支配の拠点となった。信為の後は
          北条氏一門が小机城主となり、笠原氏は城代を務めた。
           北条氏の系図については研究の過渡期にあり、いまだ不明な点も多い。永禄
          二年(1559)に成立した『小田原衆所領役帳』には、小机衆筆頭に「三郎殿」と
          ある。この三郎については氏綱の甥で幻庵長綱の子とする見方が有力であるが、
          氏康七男で後に謙信の養子となる景虎とする説もある。同三年(1560)には三郎
          が死去したため、氏綱四男で氏康の弟の氏尭が小机城主となり、氏尭の死後は
          氏康八男(九男とも)の氏光が継いだ。同十二年(1569)、氏光は伊豆戸倉城主
          を兼任し、小机衆に関する問題は、「小机四人衆」と呼ばれる笠原氏を頂点とした
          合議制によって処理されるようになった。
           城代笠原氏は、信為・康勝・照重と続いた。天正九年(1581)、照重は武田氏に
          寝返った義弟の新六郎政尭(北条家家老松田憲秀の子で康勝の養子。政晴とも)
          と戦い、討ち死にした。
           照重の子重政の代の天正十八年(1590)に小田原の役が起こると、氏光はじめ
          小机衆の主だった武将は小田原城に籠城した。豊臣勢が進軍すると、小机城は
          無傷で落ちた。戦後、小机城はそのまま廃城となり、氏光および重政は後に徳川
          家康に仕えて旗本となった。
 

      <手記>
           小机城は、鶴見川に臨む台地の先端に築かれた城です。城山は「市民の森」と
          して公園化されていて、遺構はかなり良好に残されています。主城域と出丸の間
          を第三京浜道路が縦貫し、これによって城が大きく破壊されたというように書かれ
          ている文献も多いですが、むしろ横浜市内にあってこれほどの遺構が残っている
          ということの方を奇跡的に捉えるべきかと思います。
           小机城の特徴は縄張りにあります。城山には、主郭となりうるほぼ同じ規模の
          曲輪が2つ並立していて、その間に緩衝地帯のような細長い曲輪があります。2つ
          の曲輪は西曲輪と東曲輪、あるいは本丸と二の丸と呼ばれていますが、どちらが
          本丸かについては定説をみていないようです。西曲輪の方が方形に近く、虎口の
          形成もしっかりしているため、『日本城郭大系』では、上杉・長尾氏時代の東曲輪
          から北条氏時代の西曲輪へ主郭が移った可能性をほのめかしています。
           また城内最高所はこの2つの曲輪ではなく、中間の緩衝の曲輪です。なぜ最高
          所が本丸に取り込まれていないのかは不明ですが、これによって東西両曲輪は
          お互いを見通すことができず、互いに独立した関係となっています。緩衝の曲輪の
          南端は櫓台となっていて、ここに存在したとみられる櫓のみが東西両方を同時に
          指揮することができ、実際の戦闘ではこの曲輪と櫓が司令塔の役割を果たしたの
          ではないかと推測されます。ただ、北条氏時代の小机城はほぼ実戦を経験して
          いないので、机上の推論に過ぎませんが。
           圧巻なのは、これら3つの曲輪を取り囲む空堀でしょう。道路建設によって削られ
          た西側を除く三方の堀が良好に残っていて、城の周りを深々とえぐっているようす
          がよくわかります。また、子供たちが野球の練習をしている西曲輪は比較的保存
          状態が良くないのですが、東曲輪には櫓台や土塁が残っています。この櫓台には、
          以前は模擬の四阿のような櫓があったようですが、現在は撤去されたようです。
           主城域の南側は根古谷と呼ばれ、いくつかの削平地が認められます。おそらく
          館や付随施設、用人らの詰所などがあったのでしょう。根古谷の北東側が大手と
          呼ばれています。大手から登る道は、現在通行禁止となっています。城の東麓を
          縦に走る古道の東側が字を宿根といい、城下集落が営まれていたものと推測され
          ます。
           主城域から第三京浜を挟んだ西側は富士仙元と呼ばれ、出丸があったところと
          されています。ここには大きな塚がありますが、富士仙元というのは今日の呼び方
          で、おそらく富士山が望めるということではなく、この塚が富士山(仙)に似ている
          ため、その根元という意味だと思われます。この塚は物見台ともみえますが、江戸
          時代の富士講による富士塚ともみえて何ともいえません。富士山も望めるのです
          が、樹木を整理していないために眺望はあまり開けていません。
           このように貴重な遺構を数多く伝える城跡ですが、最大の難点は駐車場がない
          ことです。車で訪れた際には、城の東側の耕作地エリアに路肩駐車するよりほか
          ありません。

           
 日産スタジアム付近から小机城を望む。
西曲輪南側の空堀。 
 西曲輪南側の空堀と土橋。
西曲輪のようす。 
 東曲輪南側の空堀。
東曲輪のようす。中央奥の塚は櫓台。 
 東曲輪北側の空堀。
緩衝の曲輪のようす。 
 富士仙元の物見台。
富士仙元南方の堀切跡。 


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