力尾城(ちからお)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 土方雄久か
 遺構  : 堀、土塁、土橋
 交通  : 近鉄湯の山線菰野駅徒歩5分


       <沿革>
           詳細は不明であるが、一説には菰野陣屋を築くまでの土方氏の居城とされる。事実とすれば、
          天正十一年(1583)に織田信雄が北勢の領主となり、その家臣・土方雄久に菰野が与えられた
          際に築かれたことになる。
           天正十八年(1590)に信雄が豊臣秀吉の命で改易とされると、雄久は秀吉直臣となり、越中国
          新川郡野々市に1万石を与えられた。文禄三年(1594)には、雄氏が別個に豊臣秀頼の近臣と
          なって伊勢国内に3千石を受け、慶長元年(1596)には1万石に加増された。すなわち、この間は
          土方氏が菰野を離れていたことになる。
           慶長四年(1599)、雄久が家康暗殺の嫌疑をかけられると、雄氏も連座して共に佐竹義宣預り
          とされた。しかし、所領を没収されたわけではなく、翌五年(1600)の関ヶ原の戦い後に赦され、
          最終的に1万2千石の大名となっって菰野陣屋は翌六年(1601)に造営された。
           力尾城跡には、雄氏の子・雄重によって寛永二十一年(1644)に見性寺が建立されている。


       <手記>
           見性寺は土方家の菩提寺であり、城山の中腹には歴代藩主や雄氏の正室で信雄の娘である
          八重姫の墓所があります。本堂真南の頂部が力尾城の主郭部とされていますが、背後の道路
          建設により大きく削られているうえ、郭内は藪化していて入れませんでした。
           一方、主郭部のひとつ先端側のピークには土塁や横堀、土橋とみられる地形が残っています。
          これらは寺院には不要な造作なので、城砦の遺構とみて差し支えないでしょう。土方氏の居城
          であったとするなら織豊時代の城郭ということになりますが、そこまでの技巧性は感じられません
          でした。いずれにせよ、おそらく北麓の見性寺境内に城主の居館が置かれていたのでしょう。

           
 見性寺。
先端側のピークの切岸状地形。 
 同じく土塁・空堀・土橋状地形。
横堀。 
 同上。
主郭部への登りルート。 
 主郭部の切岸状地形。
見性寺の歴代菰野藩主墓所。 


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