菰野陣屋(こもの) | |
別称 : 菰野城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 土方雄氏 | |
遺構 : 門、土塁、石垣、堀 | |
交通 : 近鉄湯の山線中菰野駅徒歩5分 | |
<沿革> 菰野藩1万2千石の藩庁である。初代藩主土方雄氏は、織田信雄に仕えた土方雄久の庶長子 で、弟の嫡男・雄重は奥州窪田藩主となっている。 永禄十一年(1568)の織田信長による北勢侵攻に際して、織田家臣滝川一益が菰野に代官所 を置いたのが菰野陣屋の前身ともいわれるが、確証はない。天正十一年(1583)に信雄が北勢 の領主となると、菰野は雄久に与えられた。雄久はこのとき力尾城を居城としたともいわれる。 天正十八年(1590)に信雄が豊臣秀吉の命で改易とされると、雄久は秀吉直臣となり、越中国 新川郡野々市に1万石を与えられた。文禄三年(1594)には、雄氏が別個に豊臣秀頼の近臣と なって伊勢国内に3千石を得、慶長元年(1596)には1万石に加増されたが、支配形態について は詳らかでない。 慶長四年(1599)、雄久が家康暗殺の嫌疑をかけられると、雄氏も連座して共に佐竹義宣預り とされた。しかし、所領を没収されたわけではなく、翌五年(1600)の関ヶ原の戦い後に赦され、 最終的に1万2千石の大名となった。菰野陣屋は翌六年(1601)に造営されたが、当初は極めて 簡素な造りであったとされる。本格的に整備されるのは、雄氏が信雄の娘である八重姫を正室 に迎えてからとも、2代雄高のころともいわれる。 土方家はその後、転封も石高の増減もなく13代を数えて明治維新を迎えた。明治元年(1868)、 12代土方雄永は領民の協力を得て陣屋に新たな堀と二層の隅櫓が設けられた。しかし、同四年 (1872)の廃藩置県により、菰野県庁としての役目も終えて取り壊された。 <手記> 菰野陣屋が取り壊された跡地には菰野学校が建設され、今日の菰野小学校となっています。 そのため遺構は乏しいですが、北西隅に土塁や石垣、堀が残っています。南は近鉄の線路や 道路となっており、西南角にあたる陸橋下に隅櫓跡の説明板があるそうです(未訪)。 また、菰野町北部の金蔵寺には陣屋門が山門として移築されています。さらには禅林寺城跡 とされる禅林寺の本堂(方丈)も陣屋の移築書院でしたが、2008年に老朽化を理由に解体され、 わざわざ同じフォルムの木造で新築されたそうです。 |
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陣屋跡北西隅の土塁と堀跡。 | |
同上。 | |
陣屋跡の菰野小学校。 | |
南辺を走る近鉄湯の山線。 陸橋の下付近が隅櫓跡です。 |
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金蔵寺の移築陣屋門。 |