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荒砥城(あらと) |
別称 : 山田城、砥沢城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 山田氏か | |
遺構 : 曲輪跡 | |
交通 : しなの鉄道戸倉駅から車で10分 | |
<沿革> 現地のパンフレットによると、大永四年(1524)ごろに村上家臣の山田氏によって築かれたと される。山田氏は村上氏の一族といわれるが、詳しい系譜は定かでない。 天文二十年(1551)四月、矢沢城主矢沢頼綱が武田家臣となっていた兄の真田幸隆の支援 を受けて、対立していた当時の山田城主山田国政と吾妻清綱を攻め滅ぼした。ただし、両名は 翌五月二十六日に幸隆が戸石城を奪取した際に戦死したともいわれる(『高白斎記』)。 天文二十二年(1553)に村上義清が葛尾城を棄てて越後の長尾景虎を頼り落ち延びると、 荒砥は武田氏に寝返った村上氏庶流の屋代正国に与えられた。正国は屋代城から荒砥城へ 居を移したともいわれる。同年九月、景虎が信州へ進軍して第一次川中島の合戦が勃発する と、荒砥城は景虎に攻め落とされたが、まもなく武田勢の夜襲によって奪還された。 天正十年(1582)に本能寺の変が起きると、越後の上杉景勝が北信へ進出し、正国の跡を 継いだ甥の秀正を海津城へ副将として入れた。しかし、城代で村上義清の実子の山浦景国 とは、裏切り裏切られという両先代の関係からか確執があったといわれる。荒砥城には清野・ 寺尾・西条・大室・保科・綱島・綿内の7氏が10日ごとの交代制で在番していたが、同十二年 (1584)に秀正が徳川家康の誘いを受けて離反し、荒砥城に立て籠もった。しかし、上杉方の 攻撃を受けて城に火を放ち、徳川家のもとへ出奔した。これにより、荒砥城は焼け落ちたまま 廃城となったものとみられる。 <手記> 上山田温泉街背後の山上にある荒砥城跡は城山史跡公園として開放され、戦国時代の城砦 らしい白木の館舎や柵、井楼櫓、城門などが建てられています。NHK大河ドラマ「風林火山」や 「江」のロケ地となったため、城好き以外の人でも見知っている人は多いでしょう。 ただし、公園化される前には温泉街の遊園地があったということで、どこまで旧地形をとどめて いるかはかなり怪しいといわざるを得ません。おそらく建造物はあくまで推測で、発掘調査など による復元というわけではないのでしょう。とくに、城門周辺が過剰な石積みとなっており、門を 抜けると細いスロープになっているあたりなどは、城跡好きなら一見して強烈な違和感を覚える はずです。したがって、あくまで戦国時代っぽい雰囲気を体感できるテーマパークとして訪れる のが賢明といえます。 井楼櫓からの眺望は素晴らしく、千曲川流域はもちろん葛尾城および支城群が眼前に見渡せ ます。城主の居館は、南麓の字城腰の沢筋にあったと推定されているようです。 ちなみに、私には上山田温泉といえば対岸の戸倉温泉と合わせていわゆる温泉歓楽街という イメージがずっとありました。ところが実際に戸倉温泉の公衆浴場に入ってみると、熱々で湯量も 豊富、さらに素晴らしい泉質ですっかり魅了されてしまいました。上山田温泉側はホテルが数多く 建ち並んでいますが、飲泉場があったので飲んでみるとこれまた上質でがぶがぶといただいて しまいました笑 |
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大河ドラマ等で同じみのアングル。 | |
井楼櫓からの眺望。 中央左手が葛尾城跡。 |
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井楼櫓から本丸側を俯瞰。 | |
本丸跡の建物。 | |
本丸から詰城ないし物見城の 證城跡を望む(左手最高所)。 |
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本丸跡の城門。 | |
本丸門前のようす。 | |
二の丸門のようす。 | |
同上。 |