矢沢城(やざわ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 矢沢氏
 遺構  : 曲輪、土塁、石塁、堀
 交通  : 上田駅よりバス。
       「殿城郵便局前」バス停下車徒歩5分

       <沿革>
           在地領主矢沢氏の居城とされる。矢沢氏は信濃の名族滋野三家の1つ海野氏庶流と
          されるが、詳しい系譜は不明である。また諏訪大社の神職に関わっていたとされ、鎌倉
          時代の諏訪神社大祝諏訪盛重(蓮仏)の子に、矢沢頼直の名がある。この頼直の系譜
          とすると、滋野氏ではなく諏訪氏流ということになるが、詳細は定かでない。
           戦国時代には、真田幸隆(幸綱)の弟頼綱(綱頼)が養子となって矢沢氏を継承した。
          ちなみに真田氏は滋野氏の一族である。天文十年(1541)の海野平の戦いで海野一族
          が敗れると、海野氏や真田氏らは上州へ落ちのびたが、矢沢氏は村上義清に降伏した。
          同二十年(1551)には幸隆が謀略をもって戸石城を奪取したが、このとき頼綱は村上氏
          配下として戸石城にあり、幸隆に内通して落城のきっかけを作ったともいわれる。以後、
          矢沢氏は真田氏家臣として活躍した。
           天正十三年(1585)の第一次上田合戦の際、矢沢城には頼綱の子頼康ら800の兵が
          入っていた。徳川麾下の依田源七郎ら1500の兵が城に攻め寄せたが、矢沢勢は撃退
          に成功した。
           慶長五年(1600)の、関ヶ原の戦いに伴う第二次上田合戦における矢沢城の動向は
          明らかでない。廃城時期も不明だが、遅くとも元和八年(1622)に真田信之が上田から
          松代へ転封となった際に廃されたものと推測される。


       <手記>
           矢沢城は東の殿城山から伸びる尾根の先端に位置し、矢沢郷と神川を挟んだ向こう
          には虚空蔵山があります。上田平から真田郷に入るには、戸石城か矢沢城のどちらか
          の麓の隘路を通らなければならず、交通上重要な城といえます。
           城跡は矢沢公園となっていて、西麓の入り口に説明板と2台分ほどの駐車スペース
          があります。矢沢城は至ってシンプルなつくりで、尾根の付け根を二重の堀切で断ち、
          山麓側にはピークの主郭から雛壇状に削平地が連なっています。堀切とそこから続く
          竪堀以外に堀らしき造作は見られず、公園化されているので、虎口に工夫が施されて
          いたかも不明です。堀切脇と主郭脇の2ヶ所に石積みがありますが、後者については
          積み方から後世のもののように思われます。
           真田家の筆頭家老のような扱いの矢沢氏ですが、その居城としてはつつましい規模
          のように感じます。

           
 主郭のようす。
同上。 
 主郭付近の石積み。
 後世のものか。
尾根筋の堀切その1。 
 堀切から続く竪堀。
堀切脇の石積み。 
こちらは城の遺構か。 
 堀切その2。

堀切脇の竪堀跡。 
 主郭下のお社。
 副郭か。
同じく削平地。 
 雛壇状削平地の先端側を望む。


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