知覧城(ちらん) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 知覧氏ないし佐多氏 | |
遺構 : 曲輪跡、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR指宿枕崎線喜入駅よりバス 「薩南工業高校前」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 平安時代末期より、薩摩半島南半には坂東八平氏の流れを汲む薩摩平氏が割拠しており、 そのなかの1つに知覧氏があった。薩摩平氏は川辺平氏とも呼ばれ、知覧氏は川辺道房の弟 頴娃忠永の子忠信にはじまるとされる。知覧氏の居所がどこにあったのかは不明である。 南北朝時代、南朝についた薩摩平氏は北朝についた島津氏に敗れ、知覧は島津貞久の弟 佐多忠光の治めるところとなった。応永年間(1394〜1428)、島津一族の有力者伊集院頼久 は、不仲であった貞久の孫久豊に反旗を翻し、頼久の伯父今給黎久俊が知覧城を奪取した。 城主の佐多親久は留守であったといわれる。これが、知覧城が明確に史料に現れる最初の ものである。同二十七年(1420)に和解が成立すると、佐多氏は知覧城を回復した。 天正十九年(1591)、佐多久慶は知覧から川辺へ移され、知覧は島津家の直轄領となった。 この前後、知覧城は火災に見舞われて焼失し、そのまま廃城となった。慶長十五年(1610)に 佐多氏が知覧の領主に返り咲いたが、城が復興されることはなく、薩摩藩の外城制にともなう 知覧麓が営まれた。 <手記> 知覧城は、口蓋垂(のどちんこ)のように谷間に飛び出た小山を主城域とし、それを囲む周囲 の丘陵に出城群を配した城です。知覧というと、特攻平和会館や武家屋敷群で有名ですが、 知覧城址はそのどちらからも少々遠いので、注意が必要です。逆に車だと、国の史跡に指定 されてることもあってか、観光バスも楽々入れるくらいの駐車スペースがあります。 知覧城は南九州型と呼ばれるタイプの典型例で、主城域の小山を巨大な空堀で4つに分割 し、それぞれがほとんど独立した城郭のように振る舞うことができます。他に南九州型城郭の 有名なものには、日向の飫肥城や都於郡城があります。このタイプの城は、隣の曲輪に行く のにいちいち山麓と同じ深さの堀底へ下りなければならないため、すべての曲輪を巡るには 比高×曲輪数だけの高さを登ることになり、中規模の山城を1つ登るのと同じくらいのカロリー を消費します(笑)。 西の曲輪が本丸で、南に蔵之城、北に今城、東に弓場城と呼ばれる曲輪を配しています。 蔵之城のみ発掘調査が行われたようで、掘立柱建物の跡が地表表示されています。本丸と 今城、そして本丸と蔵之城の間に虎口状の土塁跡があり、弓場城以外の3つの曲輪には周囲 の土塁が残っています。また、蔵之城の東側斜面には、竪堀も見受けられます。 このように、知覧城址は遺構が良好に残存しているうえに整備もそれなりになされており、 南九州型城郭の代表格といってよい城跡だろうと思います。 |
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知覧城址入口の説明板と標柱。 | |
本丸の城址碑。 | |
本丸の土塁。 | |
本丸の虎口。 | |
本丸と蔵之城の間の虎口状遺構。 | |
蔵之城を見上げる。 | |
蔵之城の掘立柱建物跡。 | |
今城と弓場城の間の空堀…というかほとんど切通し。 | |
蔵之城の竪堀。 | |
弓場城のようす。 | |
今城の虎口土塁。 | |
今城の土塁。 | |
大手口のようす。 城下からフラットに辿りつける唯一の道。 徒歩で訪れる場合はこちらから。 |