都於郡城(とのこおり)
 別称  : 浮舟城
 分類  : 山城
 築城者: 伊東祐持
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : 西都バスセンターよりバス
      「都於郡町:バス停下車徒歩10分
      または宮崎自動車道西都ICより車で5分


       <沿革>
           足利尊氏に従って活躍した伊東祐持によって築かれたとされる。築城年については、延元
          二/建武四年(1337)と正平元/貞和二年(1346)の2説ある。伊東氏は鎌倉時代に日向国
          に地頭職を得ていたが、後に一族間の争いで宗家が日向の所領を失い、日向国内には伊東
          氏の庶家が割拠していた。祐持は、尊氏から改めて都於郡300町の領地を与えられ、日向に
          入部した。
           正平三/貞和四年(1348)に祐持は上洛し、京で病死した。祐持の子祐重が跡を継いだが、
          この間に都於郡城は庶流木脇伊東氏の守永下野守祐氏に横領されていた。祐重はやむなく
          都於郡の西に石野田城を築き、移り住んだ。その後祐重は尊氏の偏諱を受けて氏祐と称し、
          少しずつ一族内の味方を増やし、最終的には祐氏の娘婿となることで都於郡城を回復した。
           『日向記』によれば、都於郡城は氏祐によって大きく改修され、家臣の屋敷群や城下集落も
          整備された。以後、伊東宗家の居城として、都於郡城は続いた。
           伊東尹祐の代の永正元年(1504)、都於郡城は火災に見舞われた。城が再建されるまでの
          間、尹祐は佐土原城に退避していたものと推測される。天文二年(1533)、尹祐の跡を継いだ
          祐充が早世すると、尹祐の弟祐武が叛乱を起こした。祐武は、祐充の外祖父(尹祐の岳父)と
          して権勢を振っていた福永祐炳を自害に追い込むと、祐充の弟の祐清・祐吉を都於郡城から
          追い出し、宗家簒奪を図った。しかし、祐武は祐清・祐吉兄弟を擁した荒武三省に敗れ、自害
          を余儀なくされた。
           家督は祐吉が継承したが、都於郡城は一連の内紛で荒廃したため、祐吉は宮崎城を居城
          とした。しかし、祐吉も3年後の天文五年(1536)に若くして病没し、祐清が跡を継いだ。祐清
          は佐土原城を居城とし、後に義祐と改名した。都於郡城には、義祐の嫡子義益が入った。
           義益は、父に先だって永禄十二年(1569)に病死し、幼い義益の子は義祐のもとで養育され
          た。このころ、伊東祐益(後の伊東マンショ)が都於郡で誕生したとされる。祐益の母は義祐の
          娘であり、祐益の父である伊東祐青が都於郡城代を務めていた可能性もあると思われるが、
          詳細は不明である。
           天正五年(1577)、島津氏の攻勢に抗しきれなくなった義祐ら伊東氏一族郎党は、大友氏を
          頼って豊後へ落ち延びた。都於郡城も島津氏に接収され、鎌田政近が城主となった。
           その後は佐土原城の支城として存続したようだが、元和元年(1615)の一国一城令によって
          廃城となった。


       <手記>
           都於郡城は、三財川に臨む河岸の丘陵上に位置しています。国の史跡に指定されており、
          城内はとてもきれいに整備されています。いわゆる南九州型と呼ばれる特徴的な城で、全て
          の曲輪が深い空堀によって分断され、伏せたお椀を並べたようにそれぞれが独立しています。
           もっとも広い曲輪は本丸で、ここには芸人さんのようなちょっと情けない表情の伊東マンショ
          の像があります。本丸の西にある二の丸は、本丸よりも標高が高く、また周囲を囲う土塁も
          もっとも高いため、こちらの方が事実上の本丸ではないかという見方もあるようです。本丸には
          他の曲輪にはない仕切り土塁があり、おそらく本丸内には御殿施設が建ち並んでいたものと
          推測されます。あるいは、二の丸は本丸に対する詰の丸や指揮所としての機能を担っていた
          ものとも考えられます。
           本丸の北には奥の城と呼ばれる曲輪があり、城主の奥方や家族が居住していたところとも
          伝えられています。二の丸の西には三の丸と西の城と呼ばれる曲輪があり、西の城の先にも
          もう1つ曲輪があります。『日向地誌』には、二の丸の西には斥候城(ものみのじょう)があると
          され、現地説明版では斥候城を西の城、『日本城郭大系』では三の丸に擬しています。どの
          曲輪も、視界が開けているのは三財川流域方面の西方であり、3つの曲輪は縦に並んでいる
          ことからお互いに相互補完的といえます。あるいは3つの曲輪を総じて斥候城と呼んだのかも
          しれません。
           都於郡城は、城内が非常によく整備されているため、その特徴である深く切り立った空堀を
          実感することができます。同じ南九州型として知られる城には、飫肥城や薩摩の知覧城など
          がありますが、都於郡城はそれらのなかでも最もよく管理されている城であると思います。

           
 本丸のようす。
 左手に伊東マンショ像、右手奥に仕切り土塁が見えます。
本丸虎口跡。 
 本丸の仕切り土塁。
本丸と奥の城の間の空堀。 
 奥の城のようす。
奥の城の土塁。 
 本丸から二の丸を望む。
本丸と二の丸の間の空堀。 
 二の丸の土塁。
二の丸から西方を望む。 
右手に三の丸、左手奥に西の城。 
 西の城の先の曲輪を望む。
西の城からの眺望。 
 発掘調査中の三の丸。
城下の「向ノ城」「大ノ馬場」と呼ばれる曲輪跡の都於郡小学校。 


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