長胤寺館(ちょういんじ) | |
別称 : 武石長胤館 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 武石長胤 | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : 京成本線実籾駅徒歩20分 | |
<沿革> 千葉氏の有力支族の1人である武石長胤の館跡とされる。武石氏は千葉常胤の三男 胤盛が、武石館を築いて拠ったことにはじまる。長胤は胤盛の曽孫にあたり、『吾妻鏡』 の文応元年(1260)の条に、将軍宗尊親王が鶴岡八幡宮等を参詣した際の供奉人の 1人として名が挙がっている。長胤が長作を領したのは正元元年(1259)のこととされ、 館が築かれたものこのときとみられる。 長胤寺は、弘長年間(1261〜64)に長胤本人によって創建されたと伝わる。長胤寺館 がいつごろまで城館として使用されていたかは定かでない。長胤の子孫は下総武石氏 として続くが、天文七年(1538)の第一次国府台の戦いで武石氏当主の胤親と、続柄は 詳らかでないものの一門の武石有胤が討ち死にした。これにより、大身領主としての 武石氏は滅んだとされ、長胤寺館もこのときまでに廃されたものと推察される。 <手記> 長胤寺は、長作の集落を見下ろす高台に位置しています。背後の台地上から見れば 1段低く、町場から見れば1段高い中腹の角地にあり、北と東が斜面となっています。 地続きの西辺と南辺は墓地となっていて、あるいはここに堀があったのかもしれません。 境内には縁起を記した石碑があり、そこに長胤の事跡についてもやや詳しく書かれて います。その近くに、土塁跡と思しき土盛りがあり、貴重な遺構と思われます。要害性は 乏しく、鎌倉時代の開発領主の館というのも頷けます。とはいえ、戦国時代までは利用 されていた可能性は、十分にあるでしょう。 長作の集落は周辺では珍しく谷戸の低地にも広がっています。比較的低湿地の浸潤 が少なく、居住や開発に適した土地だったのかもしれません。本貫の武石は、花見川の 氾濫原と台地の縁に沿って家々が細長く立ち並ぶ格好で、それと比べると、武石氏の 当主である長胤が長作へ本拠を移したというのも、むべなるかなという気がしました。 |
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長胤寺門前。 | |
本堂。 | |
土塁跡か。 | |
當山縁起の石碑。 |