超昇寺城(ちょうしょうじ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 超昇寺氏
 遺構  : 堀、土塁、曲輪
 交通  : 近鉄大和西大寺駅徒歩10分


       <沿革>
           国人超昇寺氏の居城とされる。超昇寺氏は御前池の東岸にあったとされる超昇寺の
          僧兵から興ったとみられ、興福寺一乗院に属し佐保田荘下司職を務めていた。
           長禄三年(1459)、超昇寺城は越智氏・古市氏らに攻められ、超昇寺氏は敗れ城は
          破却された。これが超昇寺城に関する初出とされる。超昇寺氏はまもなく復権したよう
          で、『日本城郭大系』によれば文明三年(1471)に、超昇寺氏が一乗院坊官二条兼乗
          と結んで井戸氏と争い、兼乗を城に匿ったことがあるとされる。
           戦国時代に入ると、超昇寺氏は同じ興福寺衆徒の筒井氏に属した。大和に松永久秀
          が進出すると、超昇寺城は対抗拠点として大きく改修されたとみられている。上洛した
          織田信長に臣従し、その後ろ盾を得た久秀は、筒井順慶を追い落とすと、永禄十二年
          (1569)に超昇寺城を破却した。しかし、元亀二年(1571)の辰市城の戦いを機に順慶
          が勢力を盛り返すと、超昇寺も筒井氏の手に帰し、再び修築されたと考えられている。
           廃城時期は詳らかでないが、天正八年(1580)に信長が大和国内の破城命令を発出
          するまでは、存続していたとみられている。なお、15世紀末以降の超昇寺氏の動向に
          ついては定かでない。


       <手記>
           超昇寺城は御前池の北西岸に位置し、北東麓もかつてはコマ池と呼ばれる池だった
          ようです。中心部は雑木林となっていて、周囲は宅地となっているものの、主郭とその
          北の曲輪が残っています。北曲輪の空堀や土塁は生活道路に面しているので見られ
          ますが、その奥は枯竹の藪となっていて、少なくとも私が訪れた初秋の時点では進入
          困難でした。
           池沿いの道からも東辺の土塁が望めますが、やはり藪が深く上がるのは難しい感じ
          でした。ただ、冬場ならもう少し頑張れるかもしれません。池を挟んだ南東には、支城と
          みられる佐紀城があります。

 北曲輪の空堀および土塁。
同上。 
 東辺の土塁。
同上。 
 北東麓のコマ池跡。
佐紀城付近から超昇寺城跡を望む。 


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