ディール城 (Deal Castle) |
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別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: ヘンリー8世 | |
交通 : ディール駅徒歩15分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> イングランド王ヘンリー8世によって、1539〜40年にかけて築かれた。ヘンリー8世は 当時、自身の離婚・結婚問題で神聖ローマ皇帝カール5世との関係が悪化していた。 神聖ローマ帝国とその同盟国フランスの侵攻に備えるため、ディール城を含む20以上 の城砦ラインを構築し、これを「デバイス(Device Forts)」と呼んだ。フランスの脅威が 去ったのちも、ディール城は1558年まで段階的に強化されていった。それでも17世紀 に入るころには朽ちてしまっていたが、1630年代にはダウンズの海岸線防衛のために 修復された。 イングランド内戦さなかの1648年5月、ケントの王党派が蜂起して、議会派の海軍が 拠点としていたディール、ウォルマー、サンダウンの3城を占拠した。王党派がダウンズ の海軍も掌握したことから、議会派は当初3城に手を出すことはできないでいた。だが、 同年6月のケント内陸部メイドストーンでの戦いで王党派が敗れると、3城も議会派の 攻撃に晒されるようになった。7月12日にはウォルマー城が降伏、続いてディール城が 包囲された。ディール城は海からの補給を受けながら抵抗を続けたものの、8月19日の プレストンの戦いにおける王党軍大敗の報を受け、翌20日に開城した。一連の攻防戦 で城は大きく損傷したが、廃城とはされず、1652年の第一次蘭英戦争に際して修復・ 増強された。 1802年にディール城将に就任したキャリントン男爵ロバート・スミスは、城の軍備を 削減し、居館として増改築した。この普請は、1801年に首相を辞任してウォルマー城 に逼塞したウィリアム・ピット (小ピット)に対抗ないし倣ったものといわれる。 1815年にナポレオン戦争が終結すると、ディール城の存在価値は急速に減退した。 1904年、ついにディール城は要塞としても役宅としても放棄され、一般の訪問客に 開放された。第二次世界大戦中の1941年には、ドイツ軍の空襲により城主居館部分 が破壊された。1951年からは、イングリッシュ・ヘリテージにより管理・運営されている。 <手記> ディールはダウンズの砂浜沿いのちょっとしたリゾートの町です。その市街地の外れ 忽然と現れるディール城は、今日の風景のなかではいささか異様な史跡です。北と南 それぞれ1.5kmほどのところには、ウォルマー城とサンダウン城址があります。 五港長官の役宅としても使われていたウォルマー城が、4つのバッテリーをもつ2層 構造なのに対して、ディール城は3層12のバッテリーをもち、防御力の面では規模が かなり違っています。この七曜紋を2つ重ねたようなディール城の海側には、第二次 世界大戦まで城主の居館が別に付属していたということで、最盛期にはウォルマー城 よりも美しかったのではないかと拝察されます。 現在のディール城は第二次世界大戦後に修復されたもので、観光スポットとなって います。入城料は7ポンドと、イングリッシュ・ヘリテージの史跡としてはかなり破格で、 ウォルマー城の11ポンドと比べても相当お安いです。とはいえそれでも姫路城の千円 よりは高いので、外観だけ楽しむことにしました。今にして思えば、また訪れる機会が あるかも分からないので、ちょっと奮発して入ってよかったかなと半ば後悔しています。 |
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ディール城入城口。 | |
城塞と空堀。 | |
同上。 | |
同上。 | |
おまけ:ディールの街と砂浜の風景 |