姫路城(ひめじ) | |
別称 : 白鷺城、姫山城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 赤松貞範か | |
遺構 : 天守群、櫓、門、塀、石垣、堀、土塁、井戸など | |
交通 : JR山陽本線/山陽電鉄姫路駅徒歩10分 | |
<沿革> 姫路城は、本丸のある姫山と西の丸となっている鷺山の2つの丘にまたがっており、「姫路」 の名は「姫」「鷺」の2字の組み合わせから来ているものとされる。姫路城の起源は、南北朝期 の正平元/貞和二年(1346)に、赤松貞範が姫山に築いた城砦とされる。したがって、当初は 姫山城と呼ばれていた。 『姫路城史』によれば、正平四/貞和五年(1349)に、赤松氏一族の小寺頼季が城代に任じ られた。ただし、頼季以前の系譜や赤松氏との関係についてははっきりとしない。 嘉吉元年(1441)の嘉吉の変で、将軍足利義教を殺害した赤松満祐が討伐されると、当時の 姫山城主小寺職治も満祐に殉じて討ち死にした。播磨国は山名持豊(宗全)に与えられたが、 姫山城の処遇については詳らかでない。 応仁元年(1467)、満祐の大甥政則が応仁の乱での活躍により播磨国を回復し、姫山城に 入城した。文明元年(1469)、政則は置塩城を築いて移り、姫山城は再び小寺氏に預けられ、 小寺豊職が城主(城代)となった。 永正十六年(1519)、豊職の子政隆は姫路の東に御着城を築いた。政隆ないしその子則職 の代に、小寺氏は居城を姫山から御着に移したとされる。姫山城には家老八代道慶が置かれ たとされる。 享禄3年(1530)、細川高国を擁した浦上村宗が播磨へ侵攻し、政隆は御着の北の庄山城で 討ち死にした。御着城もこのとき落ちているので、姫山城も攻め落とされたものと推測される。 翌年の大物崩れで高国・村宗が横死すると、則職は御着城へ復帰した。 則職の子政職は、備前国福岡からやってきた黒田重隆を登用し、天文十四年(1545)には 姫山城代に任じた。姫山城は重隆によって戦国の城として修築されたとされ、姫路城の始まり を重隆に帰する向きもある。重隆の子職隆は、政職の養女を娶り、小寺姓を与えられるなど、 家老として優遇された(「職」の字も政職の偏諱と思われる)。 天正四年(1576)、政職は東より伸長してきた織田氏に従ったが、同六年(1578)に摂津の 荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、これに同調して毛利氏と通じた。職隆とその子官兵衛 孝高は政職には従わず、織田氏側にとどまった。このとき、播磨へ鎮圧に赴いた羽柴秀吉に 黒田父子が姫山城を提供したともいわれるが、当時の情勢からみて、実際に秀吉が入城した のは、有岡城や三木城、御着城が落ちた後の天正八年(1580)ごろだろうと考えられている。 『播磨古城記』によれば、天正九年(1581)に姫山城に三層の天守が築かれたとされ、秀吉の 城としての体裁が整えられたことがうかがえる。この秀吉による改修時に城域が鷺山まで広げ られ、姫路(山)城の呼称が生まれたともいわれるが、鷺山における秀吉時代の遺構は今の ところ見つかっていない(以下「姫路」の呼称に統一する)。 天正十年(1582)の本能寺の変に際し、備中高松城攻めに当たっていた秀吉軍は、毛利氏 と急遽和睦を結んで京へ向かった。このいわゆる「中国大返し」で、六月四日に高松を発った 秀吉は、七日に姫路城に入り1日休息を取りつつ後続の兵の到着を待ったとされる。九日朝に 姫路を出発した秀吉は、十三日に山崎の戦いに及んでいる。 戦後秀吉は山崎に宝寺城を築き、翌天正十一年(1583)には大坂城を築いて新たな居城と した。姫路城には秀吉の弟秀長が入れられた。同十三年(1585)には、秀長が大和郡山城へ 移封となり、秀吉の正室高台院の兄(ないし弟)の木下家定が姫路城主となった。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの結果、家定は備前足守に移され、池田輝政が52万石 で姫路城主となった。輝政は徳川家康の娘婿であり、「西国将軍」や「姫路宰相」などとも呼ば れた。すなわち、西国の外様の大大名らに対する抑えとしての役割を期待されていた。輝政は 翌年より姫路城の大改築に着手した。重臣からは、姫路は姫山と鷺山の2つのさして険しくも ない山にまたがり、周辺には同じような高さの山が点在していることなどから、城として不向き であるとの意見も出たが、輝政は籠城のための城を築くわけではないとして姫路城改修を断行 した。工事は9年を要し、天守群を含む現在の姿の基本形が完成した。 輝政の孫光政は、幼くして家督を継いだため、要衝の姫路を預かるには耐えないとして鳥取 へ移封となった。代わって入ったのは本多忠勝の子忠政であり、以後譜代の大身の家が姫路 を任されるようになった。忠政の子忠刻の妻は徳川秀忠の娘千姫であり、忠刻夫妻は忠政の 15万石とは別に、化粧料として10万石を与えられていた。忠政は、千姫の居所として西の丸を 整備し、これによって今日にみる姿が出来上がった。鷺山を均してつくられた西の丸は、忠政 によって初めて姫路城内に取り込まれたといわれることもあるが、このとき整備されたのは長局 などの建物群であって、西の丸自体は輝政期から存在していたとみられている。 本多家3代の後、奥平松平家2代、越前松平家2代、榊原家3代、越前松平直矩1代、本多家 2代、榊原家4代、越前松平家2代、酒井家10代と譜代名家が目まぐるしく交代したが、石高は ほぼ15万石で安定していた。譜代としては高禄であるが、52万石の府として築かれた姫路城 を維持するのは、財政上過剰な負担であった。それでも、規模が縮小されることもなく維持され 続けたということは、姫路城が山陽道の要衝としていかに重要視されていたかの証左といえる。 <手記> いわずと知れた国宝&世界遺産の姫路城は、今も昔も日本を代表する近世城郭建築の雄と いえます。私がここで付け加えるようなことは、本当にあまりないように思います。 初めて訪城したのは小学生のころで、まだデジカメは普及しておらず、褪せつつある写真が 残っているのみです。再度の訪問は、いわゆる平成の大改修の真っただ中で、大天守は白い 布にすっぽりを覆われていました。綺麗な天守は工事が終わればいつでも見られるが、修築中 の天守は今しかみられない!と、いつもの天の邪鬼で訪ねることにしました。覆屋の中に見学 施設が設けられており、エレベーターで上階へ登り、最上層とその下層の修築現場のようすを うかがうことができます。なかには外国人の観光客もいましたが、さすがにちょっとタイミングが 悪かったのではなかろうかと、気の毒になりました。この点、欧州あたりだと、古い建築物は常 にどこかしら修復中で、あっちの角が終わったらこっちの角といった感じで永久に写真から工事 の足場がなくなることはありません。工事中はまったく見られないが、終われば完全な姿という 日本の場合とどちらが良いかは…メリット・デメリットありますね。 さすがに天守を拝めないのでは観光地として申し訳ないと思ったのか、いくつかの普段非公開 の櫓や門が特別公開されていました。やはり、天守は工事が終わればいつでも見られるという 点を踏まえれば、得をした感があります。 それにしても、姫路城の建物群は美しく画になりますね。これら広大な城地に散らばる美しい 建物を維持するのに、15万石では相当苦労したことだろうと思います。姫山と鷺山が、かつて 池田家の重臣が批判したように、城にするには緩やかな丘だったことも、城を雄大に魅せること に一役買っているような気がします。 姫路城を取り上げるTV番組や雑誌などでは、決まって姫路城の縄張りの複雑さを挙げ、門を くぐってもくぐっても天守にたどり着けないという小芝居がつきものです。ですが、いつも姫路城 の縄張り図を見ると思うのですが、複雑なのは姫山の中心部のみで、西の丸以下については のっぺりとした屋敷構えの縄張りです。全体として見ると、建造物としてみれば美しいのですが、 縄張りとしてはどうも私の「好み」ではありません(苦笑)。逆に、姫山の中心部だけに注目する と、天守曲輪から南および西に向かって梯郭状に曲輪が並んでおり、戦国期の縄張りの特徴を 色濃く残しています。この中心部の複雑かつ中世的な縄張りと、西の丸以下の御殿建築的な 縄張りのアンバランスが以前から気になっていたのですが、私見としてはこの中心部の縄張り は、羽柴・木下氏時代のものをかなり踏襲しているのではないかと推測しています。すると今度 は鷺山の西の丸がいつ均されたのか、という疑問が湧いてきますが。 ということで、観光地としての姫路城の情報を求めていらした方には何の参考にもなりません が、中世城館がメインのサイトということもありますので何卒ご容赦ください。国宝&世界遺産の 木造建築として愛でるべき対象の姫路城でも、「城館」としてみればまだまだ謎は尽きないもの です。 |
|
駅前の大通りから天守群を望む。 | |
おなじみのカット。 | |
桜橋と大手口。 | |
菱の門。 | |
西の丸渡櫓群。 | |
三国濠。 | |
はの門。 | |
乾小天守(左)と西小天守(右)。 | |
お菊井戸。 番町皿屋敷と同様の伝説をもっています。 |
|
大天守(覆屋)より西の丸を望む。 | |
大天守修築現場のようす。 | |
喜斎門跡。 | |
姫路城山北側の勢隠と呼ばれる曲輪の 屏風折れの石垣。 |
|
北勢隠門跡。 | |
姫路城西端の市橋門跡。 | |
西御屋敷跡付近から西の丸を望む。 |