楢岡城(ならおか)
 別称  : 揚土城
 分類  : 山城
 築城者: 佐原氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、井戸跡
 交通  : JR大曲駅からバスに乗り、「木直」
      下車徒歩30分


       <沿革>
           長禄二年(1457)、平鹿郡の増田城主小笠原光冬は、小野寺氏を圧迫を受けて楢岡城主
          佐原太郎時連を討ち、居を移したと伝わる。時連はその名乗りから、蘆名氏などと同じ相模
          佐原氏の後裔と推測されるが、実在したかも含め詳細は不明である。
           光冬は楢岡氏を称し、戸沢氏と幾重にも縁戚関係を結んでその重臣となった。3代光遠は
          戸沢氏からの婿養子であり、また戸沢道盛の生母は楢岡清長(長祐)の女とされる。
           慶長七年(1602)に佐竹家が羽後へ転封となり、入れ替わりで戸沢政盛が常陸松岡藩へ
          移されると、楢岡氏もこれに従い、楢岡城は廃城となった。ちなみに、政盛が新庄藩へ移封
          となった後の3代藩主戸沢正庸は、楢岡家からの養子である。


       <手記>
           常泉寺東側の峰上が楢岡城跡です。茅葺の立派な山門の右手に登城口があり、説明板
          も設置されています。城内も見学路や標識が整備され、悠悠と訪城できます。
           広大な三の丸と、背後の本丸・二の丸の大きく2つのエリアから成っているのが特徴で、
          両者の間は三の丸背後の堀切で断絶されています。これはおそらく、当初は三の丸のみの
          館城に近いものであったのが、後に本丸方面へと拡張されたからでしょう。
           本丸の背後にも豪壮な堀切が穿たれ、大きな見どころとなっています。堀底の南側には、
          虎口のような開口部があり、現地説明板では排水溝と記されています。巨城というわけでは
          ありませんが、各遺構ははっきりとしていて、戸沢氏とは盟友のような関係にあった楢岡氏
          の勢力の大きさがうかがえるでしょう。

           
 常泉寺山門。 
山門脇の説明板。 
 小社のある腰曲輪。
馬場跡。 
 馬場跡の土塁。
三の丸跡。 
 三の丸の土塁。
三の丸の井戸跡。 
 三の丸からの眺望。
三の丸帯曲輪と切岸。 
 三の丸背後の空堀跡。
二の丸の虎口と土塁。 
 二の丸背後の堀切跡。
二の丸先端側の堀切跡。 
 本丸跡と土塁。
本丸のようす。 
 本丸背後の堀切を見下ろす。
同上。 
 堀底に降り立つ。
同上。 
 堀底の虎口状開口部。
 現地説明板によれば排水溝。
同上。 


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