増田城(ますだ)
 別称  : 土肥館、土肥城
 分類  : 平城
 築城者: 小笠原義冬
 遺構  : 土塁
 交通  : JR奥羽本線十文字駅からバスに乗り、
      「増田蔵の駅」下車徒歩1分


       <沿革>
           貞治年間(1362〜68)に北朝方の将として送り込まれたとみられる小笠原信濃守義冬は、
          はじめ三又城に拠ったが、同二年(1363)に増田城を築いて移ったとされる。今も土塁上に
          立つ二本杉は、築城の際に義冬が人柱とした愛姫と牛を弔うために植えられたと伝わる。
          また、大正十三年(1924)の小学校建設の際、同土塁中から貞治二年の銘の入った石碑
          (貞治碑)が発掘された。
           15世紀の応仁の乱前後、当時の増田城主小笠原光冬は小野寺氏に圧迫されて楢岡城
          に拠点を移した。小野寺氏は、家臣土肥氏を増田城主とした。
           天正十八年(1590)、小野寺義道は小田原の豊臣秀吉のもとへ参陣し、所領を安堵され
          た。しかし、その後の検地に反発した領民は、翌十九年(1591)に仙北一揆を引き起こした。
          一揆勢は増田・山田・川連の3城に籠城し、総勢2万4千人あまりに及んだとされる。一度は
          鎮静化したが、まもなく再燃し、鍋倉四郎ら2千人の籠る増田城は上杉景勝の軍勢に攻め
          落とされた。
           文禄四年(1595)に最上義光が湯沢城を奪うと、土肥道近は最上氏に寝返った。ただし、
          道近が仙北一揆の後も増田城主であったかは疑問の余地があり、増田城には最上家臣
          長瀞内膳が入れられた。
           慶長七年(1602)、佐竹義宣が羽後に入国すると、最上家との間で所領交換が行われ、
          雄勝郡は佐竹領となった。増田城には、佐竹東家佐竹義久の子義賢が入ったとされる。
          一国一城令発布後の元和八年(1622)に、久保田藩内の他の諸城館とともに廃された。


       <手記>
           増田小学校全域および増田図書館にかけてが、増田城の範囲とされています。北西隅
          に土塁の痕跡と、前出の二本杉および貞治碑があります。
           開発されているので、遺構はほとんどないだろうと、私はこれだけ見て満足してしまった
          のですが、後で調べたところ学校の東辺にも長い土塁が残っているとのことでした。う〜ん、
          失敗です…><
           増田は取り立てて要害の地とはいえませんが、伝統的建造物群保存地区に指定されて
          いるとおり、東西・南北の街道が交わる交通の要地にあります。今でこそメインルートから
          外れていますが、鉄道のない時代には羽後と奥州を結ぶ集積地として栄えたそうです。
          小笠原氏が増田に拠ったのも、こうした交通・経済的な理由を重視したのでしょう。
           ちなみに、伝統的建造物群保存地区を観光する際はまず最初に増田観光物産センター
          「蔵の駅」を訪ねることをおすすめします。理由は、その後で他の保存建築を覗いてみると
          分かると思います^^;

           
 北西隅の土肥城跡標柱。
北西隅の土塁と二本杉。 
奥に貞治碑。 


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